2013年2月28日木曜日

西国街道「ひな人形めぐり」その2

西国街道は、「唐(から)海道(かいどう)」とも呼ばれ、一文橋へと進む石畳や、軒まで漆喰塗りや穀蔵、出格子窓をつけた長屋門があり塀が連なり、旧家の屋敷構えを伝えている。
源氏枠飾りや内裏雛と三人官女があった。歴史街道の西国街道はお雛祭り。言い伝えによれば秀吉が小畑川の流路を西に移し、道路を拡張整備すると同時に堤防を築いた。この時できた広い河川敷が、後世の農地化、宅地化され、それが上植野町や下川原の地名が残ったという。5分も歩くと工務店、吉川さん宅に着いた。
万歳人形。米粒ほどの大名行列の芥子(けし)人形もあった。1901(明治34)年ごろの雛人形・源氏枠飾りや内裏雛と三人官女があった。吉川さんの奥さんの説明によると三人官女は時代の人形の美しさは瓜実顔し色気があって好きだと話をした。自分も好く見ると三人官女は時代の流れがあり人形ながらも浮き浮きするようであった。米粒ほどの大名行列の芥子(けし)人形や万歳人形もあった。
西国街道「ひな人形めぐり」ブラブラ歩いていると暖簾の下った塩崎家があった。ブラブラ歩いていると暖簾の下った塩崎家がある。西国街道「ひな人形めぐり」の塩崎家では報道関係がバシャバシャシャターを切っていて明日新聞に掲載される。
御殿雛と人形。明治、大正の古今雛、昭和の御殿雛も飾られ、いずれも格式の高い上品さが伺えた。 江戸時代後期に作られたひな人形は緋毛氈(ひもうせん)の代わりにエキゾチックな柄の布が使われていた。江戸時代後期の雛人形は古今雛の段飾りと掛け軸、明治、大正の古今雛、昭和の御殿雛も飾られ、いずれも格式の高い上品さが伺えた。
皇太后が幼い頃、お召しになっていた緋色の袴(はかま)のふくさ。
昭憲皇太后(明治天皇のお后)の由来の袱沙(ふくさ)が現在もある。清水家の先祖(四代前)の女性が京都御所に乳母として仕えていた。都が東京に遷都した。
皇太后が幼い頃、お召しになっていた緋色の袴(はかま)で、皇太后のお印「若葉」の刺繍を刺した袱沙に仕立てものを賜って家宝として大切にしてきたという。さらに近衛家拝領御文庫は、姫君が遊ばれた色紙、櫛入れ、懐紙や手書き、版画に使う和紙も入っておった。
手作りのケース入りの「木目込み人形」塩崎家の庭に目をやると、野鳥がきてる。塩崎家に飾られていた御殿雛や古今雛の段飾り、手作りの木目込み人形、吊るし飾りや竹行灯など今回で3回目となったとお茶を頂きながら話を交わした。 塩崎さんは、「街道や商店街を一軒ずつそぞろ歩きしながら楽しんでほしい」と言っておる。富永屋に つづく・・・

0 件のコメント: