2010年9月29日水曜日

櫛まつり 安井金比羅宮

奉納された櫛
安井金比羅宮の境内には久志塚ある27日、東山区の安井金比羅宮で使い古したり折れた櫛に感謝する櫛まつりがあった。「櫛に感謝する心を」ということから、1961(昭和36)年9月4日多くの美容家たちによって櫛供養が行われたのが始まりである。久志塚前の奉納された櫛を供え、櫛に感謝の法要
かつらは使わずモデルたちは髪形を地毛でするという安井金比羅宮は、1695(元禄8)年、太秦安井にあった蓮華光院が祇園安井に移され、その鎮守として、崇徳天皇に加えて、讃岐金比羅宮より勧請した。大物主神と源頼政を祀ったことから、安井の金比羅さんの名で知られるようになった。各時代毎に、歩いていた
九・四の日に行っていたが最近、第4月曜が櫛の日1156年の保元の乱に敗れ、讃岐で崩れた崇徳天皇の霊を慰めるために1275~77年の建治年間に大円法師が建立したのが始まりである。祭神は崇徳天皇、大物主神、源頼政を祀っている。 笑顔が可愛い!!
手には笹を持っている当初は櫛の日にちなんで、語呂合せから“九・四の日”に開催されていたが、最近では9月第四月曜日に京都美容文化クラブが主催して行うようになった。安井金比羅宮は、昔、太秦安井にあった
さすが舞妓さんはちがう櫛まつりは、今年で第50回を迎え、境内では使い古した櫛や、折れた櫛を「久志塚」に奉納して櫛の法要が営まれた。東山通から祇園石段下へ向う
先頭はみずらという結髪、古墳時代久志塚前の奉納された櫛を供え、宮司が祝詞を奏上し供養を行い、櫛に感謝の誠を捧げ、使い古したり傷んだりした櫛を供養した。 四条花見小路を行列は行く
ゆったりと優雅なときを刻んでいた古墳時代から現代舞妓までの各時代の装束や衣装を着け、かつらを使わず地毛で結い上げた髪型をした、女人風俗行列が当宮を出発し祇園界隈を練り歩いた。
女人たちは、着付けと結髪の正しい伝承を目的に、それぞれ各時代の風俗の髪形と装束に扮した52人の着物姿の女人らがゆったりと優雅なときを刻んでいた。今年は50周年で弥栄会館で奉納舞・黒髪がある
現代舞妓の姿風俗行列は安井神社から出発して東大路通を北へ進み祇園石段下から四条通り、花見小路を右折、温習会で賑あうギオンコーナー、弥栄会館へと向った。この櫛まつりは第50回の節目とあって、今年は奉納舞・黒髪と時代風俗の解説は弥栄会館で行なわれて残念ながら観ることは出来なかった!
カード持ってお手伝いした人に聞いた!ボランティアとか?京都美容家の卵時は変われどいつの時代にも、日本女性とって着付けと結髪・髪形と櫛に感謝する心を忘れてはならない。沿道は多くの参列者や観覧者で賑あい、観光客らが盛んにカメラのシャターを切る姿がみられた。
<櫛まつり・安井金比羅宮>
場所:京都市東山区東大路通松原上ル下弁天町70  電話:075-561-5127
境内:無料
時間 :式典12:00~行列出発14:00~
交通:市バス、東山安井下車すぐ

2010年9月25日土曜日

2010高瀬川 舟まつり

舞妓さんも傘を差して
歴史のある高瀬川「一之船入」秋分の日、第21回目の「高瀬川舟まつり」が10時過ぎ、雨交じりのなか開催された。 雷鳴とともに雨が激しさを増し、中止ではないかと気を揉むバスの乗客の一人だった! 会場に行くと少し雨も小止みなり、既に関係者が用意をされていた。 高瀬舟と舞妓さん
舞妓さんの衣装が雨で濡れたら・・・舞妓さん二名も到着して、やっと華やかなまつりムードになった。「高瀬舟」で知られる高瀬川は、中京区木屋町二条付近より鴨川から受水して「一之船入」としている。
大正9年6月まで306年間運行した1611(慶長16)年、高瀬川は江戸時代の豪商・角倉了以(すみのくらりょうい)が二条~伏見間に開いた運河で重要な物資輸送路を運航した。京都の中心部に物資を運びいれ、この辺りを起点とし鴨川から水をとり入れ、十条まで南下、さらに鴨川を横断して伏見に通じていた。特に、材木屋の問屋が多く京都~伏見の間、材木を積んだ高瀬舟の往来が多く、盛時には百数十艘が航行し大阪など物資を運びいれた。舞妓さんによるお茶の接待もある
舞妓さんは日本髪、だらりの帯後姿も好い高瀬川舟まつりのメインは先斗町の舞妓さんが高瀬舟に乗って華を添える。
雨天で心配したが事無く、着物姿の舞妓さんは川辺で舟に乗り込み等、たくさんのカメラ愛好家の人たちはシャッターを切っていた。
舟まつりでは舞妓さんによるお茶の接待などもある。
今年はチャンバラ教室「武志塾(さむらい塾)」パフォーマンスや高瀬川舟上での学生による落語三台などが開かれ、訪れた人に笑いを誘っていた。 チャンバラ教室「武志塾(さむらい塾)」パフォーマンスが盛り上げた
写真愛好家が舞妓さんを写していた高瀬舟は江戸時代に物資を輸送された平底の舟で、家族連れや観光客らが岸から移って川面の風景を楽しみ写真を写していた。高瀬川舟まつりに限り、隣の島津創業記念資料館も無料公開・がんこ高瀬川二条苑も庭園は無料である。
<高瀬川舟まつり>
開催場所:京都市中京区木屋町二条下がる
       高瀬川一之舟入付近
開催日時:毎年9月23日10:30~16:00
行事料金:見物無料(但し:お茶席有料)
交    通:市バス京都市役所徒歩3分

2010年9月24日金曜日

京都御苑 厳島神社(池の弁天さん)

つづく・・・拾翠亭の茶室は東山を借景に勾玉形(まがたまがた)の池が広がり、なお一層景観を引き立たせている。池の中には小さな島があり、そこには厳島神社が祀られている。平清盛が母・祇園女御のために勧請した厳島神社は、九條家の鎮守社
平清盛が母・祇園女御のために安芸の厳島神社を勧請したのが始まりと言われる。清盛は厳島大神を崇拝し、当初兵庫県の築島一社を設け、後に自分の母を合祀した。 後に、京都御苑の九條家邸内の拾翠亭の島中に移転されたと伝わっている。また九條家の鎮守社で御祭神は市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命の宗像三女神だが主祭神に祗園女御を祀っていて池の弁財天として崇敬されている。
古くより家業繁栄、家内安全を護る神として一般の人々から深く信仰されている。池の弁天さんとして親しまれている
珍しい“唐破風鳥居”厳島神社は、珍しい破風型の鳥居として国の重要美術品に指定されている。
鳥居は二本の柱の上に架かる島木と笠木が唐破風の形をなしており“唐破風鳥居”と呼ばれる。北野天満宮・摂社伴氏社(ともうじしゃ)の“中山鳥居”は、左右の縦の柱より貫通されておらず珍しい鳥居で鎌倉時代の作である。百日紅の紅色も鮮やかな高倉橋
高倉橋から遥か前方・建礼門を望む
また古代から蚕養神社(こかいじんじゃ)として織物の始祖を祀っている太秦蚕ノ社に“三柱鳥居”珍しい三角形の鳥居がある。この神社は、木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)となが~い名前である。
この三つが「京都三珍鳥居」に数えられている。
厳島神社から見た拾翠亭と九條池勾玉池から見た厳島神社
京都御苑の厳島神社に祀られている“池の弁天さん”は様々な分野の芸術家たちが大きく巣立っていくことを願っている。中ノ島周辺には高倉橋や勾玉池があり、そこからの景色は池畔に百日紅が綺麗に映っていた。(完)

2010年9月21日火曜日

九條家遺構 茶室・拾翠亭(しゅうすいてい)

拾翠亭は、江戸時代の後期に、当時の五摂家の一つである九條家の別邸として約200年前に建築されたと伝えられている。茶室・拾翠亭は、文化人の社交の場として貴族や公家などの茶会や歌会に使用された。 九條池は江戸時代後期の築造で、その池の形から別名、勾玉池(まがたまのいけ)と呼ばれている拾翠亭の入口は京都御所・間ノ町口にある
藤原鎌足(かまたり)を遠祖とする流れを汲む九條家は、摂政関白などの要職に就く人が多く、安土桃山時代には、京都御所の南側に約1万坪の敷地を有する名家であったという。現在、茶室・拾翠亭だけが現存している。眼下には厳島神社や高倉橋が見えるが東山を借景としたという
二階座敷には三方に縁高欄がめぐらされている名前の由来「拾翠」とは、緑の草花を拾い集めると言う意味があり、その昔平安時代に貴族の人々が長閑な日に野辺に出て、草花を摘んで楽しんだ風習に因んで名づけられた。また「翠」という文字には、緑の美しい鳥である“カワセミ”の意味もあり、かつて勾玉池・まがたまのいけ(九條池)に数多くのカワセミが飛来したから「拾翠」と言われている。
灯り取りも障子は石垣貼り、丁子七宝の彫刻もされている広間と控えの間は襖をはずせば17畳ほどの広さになる建物は、数寄屋風書院造り二層からなる。二層の外回りには、縁高欄(えんこうらん)と言う手すりが施されており、また屋根の形も「切妻造」「入母屋造」が組み合わされて、簡素な中にも貴族的な優美な外観を呈している。
一階は主として、十畳の茶室の広間と七畳半の控えの間、さらに広間の北側の三畳中板の小間になっており、広間と小間が隣接しているのは、この二つの茶室で貴族や公家がお茶を楽しんだもので、現存する貴族の茶事の習わしを知る上で貴重なものである。 北側の三畳中板の小間、床柱と落掛、ほたる壁
寄せ棟造りの東屋広間、控えの間は襖をはずせば17畳ほどの広さになって、部屋の機能を可能にさせ、より充実させる空間。小間、床柱に百日紅の曲げ木を使い、床框(かまち)は黒柿、特に落掛は南方の“ヘゴシダ”が使用され珍しい。
障子の張り方は、石垣貼り、丁子七宝の彫刻もされている。高倉橋は明治15年竣工、百日紅の向に滝がある
素晴らしい景観に心が和んだ拾翠亭の前に広がる池は、その池の形から勾玉池と呼ばれている。現在は九條家を偲んで九條池とも呼ばれている。当時は、池の東側の木立が繁っておらず、邸内から東山の山並みや五山の送り火を眺めることができたと伝えられている。また、勾玉池の東南隅には鴨川から水を引き滝組が設けられている。紅色の百日紅、カモとアオサギ
対岸から見た茶室・拾翠亭夏、勾玉池の畔は、たくさんの百日紅(さるすべり)が植えられ一面紅色の花で覆われる。 東山を借景に、勾玉池に架かる白い橋と百日紅の紅色の花、緑の木々、池に映る色合いが見事なコントラストを見せてくれ茶室からの景観は素晴らしい。当時の面影を残す、貴重な文化遺産である。つづく・・・
<拾翠亭>
場 所 :京都市上京区京都御苑内 電話:075-211-6364
参観日:3月1日~12月27日までの毎週金曜日、土曜日
      葵祭、時代祭、春・秋御所の一般公開日
時 間 :9:30~15:30
料 金 :100円(高校生以上)
交 通 :市営地下鉄南北線、丸太町下車徒歩5分

2010年9月19日日曜日

萩まつり 梨木(なしのき)神社

梨木神社は萩の宮ともいわれ、京都市上京区では恒例の「萩まつり」が行われておる。 本殿御所と寺町通に参道はある
梨木神社は、京都御苑と寺町通に挟まれ南北に細長い参道で、その両脇に約500株の萩が植えられている。
今年の開花は猛暑で遅れ気味だが、しなやかにたわむ枝が風に揺れ、ちらほらと可憐な花が咲き始めており、参詣者は秋の訪れを感じていた。今年の開花は猛暑で遅れ気味
正面門正面の石鳥居をくぐると、社務所・拝殿・本殿と一列に整然と並ぶ境内、手洗舎の染の井「染井の水」と呼ばれ、京都三名水の一つとされ、現在も清冷な水が湧き出ており、近隣の人が次々と水を汲みに来ると言う。また、かつらの木の葉がハート形になっているため「愛の木」と名付けられた。正面門右に、倒れそうな松がある。 拝殿
本殿の内部梨木神社の祭神は、三條實萬(さねつむ)・三條實美(さねとみ)父子をとする。
三條実萬は、当時『今天神』と人々から尊称され、光格・仁孝・考明三天皇に仕え、皇室の中興に尽くし王政復古の大義を唱えて、明治維新の原動力となられ大きく貢献した。
1869 (明治2) 年東京遷都の際、御所廃止論に最後まで反対を唱え、常に国政の中枢にあり明治新政府では右大臣、太政大臣、内大臣になった。議会政治の基礎を作った功績を愛で、天皇より三条家の邸宅跡に三條實萬を祀るための社殿を造営し、1885(明治18)年、地名からとった梨木神社の社号と別格官幣社の列格を受けて創建した。
その後1915(大正4)年、大正天皇即位を記念して、子の實美を合祀した。可憐な萩の花に蝶が飛び交う
白い萩秋の七草は、萩、ススキ、葛(くず)、撫子、女郎花(おみなえし)、藤袴、桔梗とされている。万葉集にはこの秋の野に咲いた七草を詠み込んだ歌が多く残されている。萩の宮いわれる梨木神社、秋の気配を詠んだ俳句の短冊が飾り付けられ風情を一層深く感じた。萩の花の見ごろは一週間~10日前後だと話していた。茶室・旧春興殿/虚中庵
短冊が飾り付けて・・・毎年九月の第三曜日前後に行われる「萩まつり」の日、奉納行事は社殿改修の為今年は行われないが、俳句大会や茶室もある。
<萩まつり> 梨木神社
住所:京都市上京区寺町通広小路上る染殿町 電話:075-211-0885
拝観:境内自由(9:00~17:30)
交通:市バス「府立医大病院前」下車、徒歩約5分