2010年8月31日火曜日

みちのく紀行 同級会

つづく・・・東北は高温多雨、何年かぶりで台風もやって来た。甲子園の高校野球を観れば若人が玉のような汗粒で頑張っている。しかし岩手花巻は14日、15日バケツをひっくり返したような俄雨が降ったが午後は止んだ! 幹事は26人集まると言った東和町の新館で同級会が開催された
今から50年前の1960(昭和35)年、所得倍増の流行語や“誰よりも君を愛す”や南国土佐を後にしてなどの流行歌は空前の大ヒット作だった。そんな旧小山田中学校第13回生卒業生、66歳の同級会が花巻市東和町土沢の会場で午後4:30から「パレスまほろば(Aコープとうわ2階)」で開催される。卒業記念は上から三列、右から2人目である
旧小山田中学校の校舎と校庭この同級会開催の往復葉書の報せを頂いたのは、祇園祭山鉾巡行後、数日たった真夏の厳暑のころだった。
早速、返信に参加の〇をし、これが級友との最後の思い出になる~と思い、祇園祭長刀鉾・注連縄切りを印刷して投函した。みちのく故郷は三年半前、兄が死去した冬だったが今回、夏避暑がてら帰るのも好都合とおもった。
焼かれるほどア・ツ・イことしの夏・・・・・・東北に行って少し涼もうと秘かに心で思った。ところが、ことしの夏の暑さは東北もかわらない!!
全員で懐かしい校歌を斉唱した司会者と幹事代表が挨拶同級会と言えば、2004(平成16)年2月、花巻南温泉峡で還暦記念の同級会41人と恩師2名、あれから6年の歳月が経った。
田舎の学校でクラスは小さく80人足らずの人数で学級は2つしかない!
会場に行くと、出席者は集まり懐かしい話が始まった。
出席者は26人で還暦のときほどではなかったが、男性17人女性9人だった。
昔話に花が咲きこの三人は大阪市吹田、盛岡、仙台から同級会に来ていた!
テーブルが3卓あり着席はどこでも良い訳じゃなく、クジだった!
私は真ん中の席で両端には女の子(お婆ちゃん)で、料理が並ぶ丸テーブルも椅子席だった。幹事が開会宣言を、故人に黙祷を捧げた。故人は9人を数える!
そして、みんなで校歌斉唱を行った。この校歌も既に唄われなくなり、学び舎も中学校から小学校、そして廃校・・・東和小学校になると言う。万歳三唱する前の光景
残った物は二次会に・・・乾杯の音頭、祝宴を重ね、子どもの時を想い出し和気藹々に過ごしたが、あっと言う間に時が過ぎ去った。幹事が4年後70歳、古希を祝って再会しょうと言ったが、誰かが毎年同級会をしようと反対意義を述べた!
確かに同級会は減る事はあっても増える事は無く、年々歳々他人様々、病老死の分別は定かではない。
4年後、古希はともかく、毎年行う事と決定して幕を閉じた。
幹事は二次会も用意していた。
午後7時、田舎の夜道は暗かった!
でも大多数の方が二次会に参加である。
別れを惜しむかのように・・・
つづく・・・

2010年8月28日土曜日

みちのく紀行 岩手・須川高原温泉

つづく・・・花巻市内の同級生の親友が運転する車で、秋田県と岩手県の県境に位置する標高1129mの高原台地、須川高原温泉を訪ねた。一軒宿の須川高原温泉青みを帯びた乳白色の露天風呂
須川高原温泉は栗駒山の北方、岩手、秋田、宮城の県境が交差する剣岳の北麓で、2008(平成20)年6月14日発生の岩手宮城内陸地震の影響で、岩手県側からのアクセスができない状態が続いたが、三年後やっと通行止めが解除され通行可能となった。友人の運転する車は奥州市から平泉、中尊寺・毛越寺を経てR342を西へ向った。三年経った今でも山肌が無残姿を残していた左、磐井川と右、舗装された道と斜面
道路沿いの磐井川や山々の生々しい崩壊跡を見て地震の恐ろしさを痛感した。
約45㎞地点で、途中の真湯温泉からは狭い曲がりくねった山道、栗駒山の麓に湧く、須川岳秘水“ぶなの恵み”で一休みした。
須川高原温泉は親友と二度目であったが、水呑み場は新設されてあった。災い転じて・・・
秘水 ぶなの恵みこの夏は、各地で40度近い猛暑が続いている。しかし、ここは高原の別天地でさわやかな風が流れていた。一軒宿の須川高原温泉は、全国で9番目の高地にあり、独特の天然蒸気欲はその例をみず、大自然に広がる栗駒、焼石国定公園に指定された高山植物も150種以上を数え登山者たちにも愛されている。
標高1129mは全国でも9番目無料の足湯須川高原温泉の一軒宿も地震で崩壊の被害もあり、今は建て替えられていた。以前はなかったが、無料の足湯もあって観光客はアツィ・アツィと言いながらも楽しんでいた。
天然自噴泉で泉温は46℃、泉質は「酸性・含硫黄・含鉄(Ⅱ)・硫黄-ナトリウム-硫酸塩・塩化物泉(硫化水素型)、強酸性含明礬緑礬泉で皮膚病やリウマチ、胃腸病などによく効く全国的にも珍しい温泉である。旧泉質名は「緑化水素含有性名明礬緑礬泉(りゅうかすいそがんゆうせいめいはんりょくはんせん)という。溶岩丘の下から滔々と湧き出している
湯は源泉から湯樋を伝わってなみなみと湯船に注ぎ込まれる湯の湧出量は毎分約6000リットルで(須川温泉と共同使用)変わりは無く、名明礬緑礬泉のとおり明るい青緑の湯であった。
一軒宿の右側には源泉地・大日岩があり、さらにその足元に露天風呂「大日湯」が有名である。10m四方もある大きな露天風呂、湯は源泉から直接引いている。青みを帯びた白濁の湯だ。塀は低く、景色もなかなかよい。雑誌などによく出てくる絵になる露天風呂、奇岩を背に湯船の縁に腰掛けた。温泉は、冬期は積雪のため11月から5月中旬閉鎖されている。夏の間だけの営業で宿は長期の湯治にも適して自炊部の方も居る。胃腸病、婦人病に効果がある温泉と言われ湯治客も多く国民保養温泉地の指定を受けている。
栗駒山への登山道が温泉地から伸びており、登山の基地としても利用されている。なお約300m離れた秋田県側にも須川温泉があり、泉源は同一のため両者をまとめて須川温泉と呼ぶという。
大自然が広がる地、秋は全山が紅葉に染まる。ふと、思う・・・この次は、紅葉に染まる山々をゆっくり眺めて温泉に浸かりたいとおもった。栗駒山への登山道が温泉地から伸びており、登山の基地としても利用されている
白く積もった湯の華海抜1200m、高原森林浴に恵まれた大自然の恩恵に包まれ、爽やかな健康体を取り戻せるような温泉地である。須川高原温泉は不便なところだが湯量豊富な源泉湯はいまも変わらない。帰路は、秋田県側にから横手市を経由して107号で戻ってくれた親友に感謝・感謝である。つづく・・・
<岩手・須川高原温泉>
住   所:岩手県一関市厳美町祭畤山須川高原温泉 電話:0191-23-9337
営業時間:6:00-21:00 (露天)
      9:30-17:00 (内湯)(大広間は15:00まで)
休 館 日:無休
      冬期(11月-5月中旬)閉鎖
入湯料金:500円(千人風呂、露天風呂のどちらか)
      1 000円(大広間、両方の風呂利用可)
交   通:JR東北新幹線一ノ関駅から送迎有り(1日1便、要予約)

2010年8月27日金曜日

みちのく紀行 高村山荘と記念館

つづく・・・宮沢賢治の母イチの実家「産湯の井戸(賢治誕生の家)」を見学した後、親友に電話、高村山荘・記念館に車を依頼したが引き受けてくれた。 積雪の小屋高村山荘は套屋で保護されている
ここ花巻鍛冶町から山荘までは西方に10㌔ほど、緑の山並みに囲まれた長閑な田園風景が広がった。光太郎は、1945(昭和20)年5月、焦土と化した東京から花巻に疎開した。以前から知己の間柄だった宮沢賢治の弟の家だったが、その宮沢家も戦災をうけ転々とした。26年5月山荘を賢治の両親が訪問する
左は晩年の光太郎、額は無得殿光太郎は山荘に入る前、旧山口小学校の宿直室で過ごし、地元との交流を深め、敬慕する村人たちの手によって山荘が建てられた。
しかし、冬には雪が吹き込むあばら屋、屋根は杉皮葺、荒壁、障子一重の窓の畳三畳半で孤独な農耕自炊生活が始まった。マイナス20℃の巌寒、吹雪く夜、顔に雪がかかって寝ることさえできなかったという。炎暑の夏は、蚊やブヨに悩まされた厳しい生活だった。ときに光太郎62歳だった。七年の自炊生活の中、隙間を彫り込んで時刻を知った
自画像そんな生活の中で、光太郎は新しい文化の創造を夢みて、彫刻・彫塑(ちょうそ)はもとより、詩や多くの書作品が生れたのである。日時計は、一枚の板に雫のような隙間を彫り込み、太陽の動きで時刻を知ったという。つよい愛の絆で結ばれた二人
厠の灯り取り、光は自分で彫った1914(大正3)年、31歳のとき三つ年下の女流洋画家・長沼智恵子と出会って結婚した。光太郎は、「この世で智恵子にめぐり逢い、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の退廃生活から救い出される事が出来た」と語った。だが1938(昭和13)年、七年の錯乱の末、智恵子は死去した。
三年後、光太郎58歳のとき、三十年に及ぶ二人を綴った詩集「智恵子抄」は、強い愛の絆で結ばれ亡き妻智恵子との愛の絶唱だった。
1952(昭和27)年、69歳のとき、十和田国立公園功労者記念碑の彫像制作に取り組み、翌年十和田湖畔休屋に「裸婦像」を除幕した。
その完成から三年後、光太郎は73歳で生涯を閉じた。亡父光雲、13回忌の碑と後方は井戸
記念館には、裸婦像の原型、妻智恵子の切り絵が展示されている記念館は山荘から150m離れた木立の中にある。山荘の左手は井戸があり、山手後方にある小高い丘は光太郎が好んで散策した智恵子展望台だという。
智恵子の死から十一年後の晩年66歳のとき、山小屋で書いた「案内」云う詩である。光太郎は一人、農耕自炊生活をした
三畳あれば寝られますね。
これが小屋。これが井戸。
山の水は山の空気のように美味。
あの畑が三畝(うね)、
今はキャベツの全盛です。
ここの疎林(そりん)がヤツカの並木で、小屋のまわりは栗と松。
坂を登るとここが見晴らし、
展望二十里南にひらけて
左が北上山系、右が奥羽国境山脈、まん中の平野を北上川が縦に流れて、
あの霞んでいる突き当りの辺が金華山(きんかざん)沖ということでせう。
智恵さん気に入りましたか、好きですか。
後ろの山つづきが毒が森。
そこにはカモシカも来るし熊も出ます。
智恵さん こういうところ好きでせう。
と、綴っている。この道を歩くと歴史民族資料館にでる
光太郎は、月夜にここで智恵子を呼んだと伝えられている智恵子展望台光太郎は、「智恵子抄」など、詩集が有名になり教科書にも掲載されるようになった。本職は彫刻家・画家で詩人として詩や評論・随筆・短歌の著作もあった。
つづく・・・
<高村山荘・高村記念館>
住  所:岩手県花巻市太田3-91 電話:0198-28-3012
開  館:午前8時~午後5時 休館:12月16日~3月31日
入場料:500円 ・障害者400円
     なお花巻市歴史民族資料館との総合料金は550円
交  通:花巻駅からバスで終点下車。

2010年8月26日木曜日

みちのく紀行 賢治の「産湯の井戸」

つづく・・・高村山荘行きのバスを知るため、花巻駅の市街観光案内所に行った。
しかし、午前中バスが運行されるのは一便だけ、乗り遅れてしまった!土蔵は隣家のものである宮沢さんのお宅
花巻駅と高村山荘を結ぶ便は、たった3本しかない!
それも平日のみの運行で午後二便、次のバスの時間14時まで、宮沢賢治の生家や「蔵」、公開期間限定(8月2日から27日)“産湯(うぶゆ)の井戸”を見学することになった。懐かしいオルガン、弾かせて頂いた
見られなくなった机、高学年用と低学年用がある観光協会のボランティアの方は私の足の事を気遣い、マップを広げ細やかにバスの時間やその後の立ち寄りなど丁寧に教えてくれた。北上行きのバスに乗車、ものの5,6分で豊沢小路(としゃこうじ)の蔵に到着した。生家跡には現在も宮沢さん家族が住居している。土蔵は隣家のものであるが花巻街角ミュージアム「蔵」は、賢治を育み、賢治が愛した人々が住む街として、賢治を公開・販売している。そこは質素な土蔵の雰囲気がした。お茶をご馳走になった。
賢治の「産湯の井戸」を目指し、花巻城下町 鍛治町を西に向って歩いた。
産湯の井戸の説明書き
今から約140年前の江戸時代末期、鍛治町は花巻城の城下を形成していた。


この「産湯の井戸」は、賢治の母イチの実家、宮沢商店で誕生、当時は産院も無く出産するのが常だった。賢治が生れた8月27日の5日後、31日午前5時、真昼岳(岩手・秋田県境)を震源とする「陸羽大地震」マグニチュード7.2が発生した。
僅か20歳のイチが生れたばかりの賢治をかばうため、乗りかかるように上体を覆い、一心に念仏唱えていたと言う。イチは両親に似て慈悲深く上品であったと言う。
旅行で花巻に訪れた東大阪市の4人連れも観光タクシーで駆けつけた。後方に懐かしい揉み啜り機がある! 宮善と書かれたハッピ、今でも商売を続けている
豊沢川の伏流水が地下水脈を形成していて水量は豊富、釣瓶井戸の水は今も満々と充ちている。味わってみたが、美味しい。
宮沢賢治「産湯の井戸」は114年の歴史を物語る。
タクシーの乗務員が井戸の中を照らしたさて、11時・・・14時まで時間はあるが待っては居られず・・・花巻市在住の親友・同級生に送ってくれと電話でお願いしてみた。
高村山荘までは10㌔程の道程で些か遠く心苦しいが、快く送っていただいた。
彼とは子ども時代からの親友である。
つづく・・・

2010年8月25日水曜日

みちのく紀行 花巻新渡戸記念館

つづく・・・宮沢賢治記念館から南に約1.5㌔で新渡戸稲造(にとべいなぞう)父祖ゆかりの地がある。 生涯を国際平和と教育につくした国際人、新渡戸稲造博士のルーツを訪ねてみた!稲造父祖ゆかりの地で揺らぐ蝶花巻新渡戸記念館
「願わくはわれ太平洋の橋とならん」との信念のもと、世界平和のため尽力した国際人新渡戸稲造の先祖は、1598(慶長3)年から約230年間、花巻市安野の地に居住した。
以後、新渡戸一族は、代々文武両面にわったて幕末期の花巻城士の指導的役割を果たした。また十和田三本木原の新田開発に貢献した。
稲造の祖父・傳は、1793(寛政5)年、花巻で生れ、大事業である十和田三本木平の開発に、息子の十次郎(稲造の父)とともに着手、10年を費やす難工事の末、人口河川「稲生川」の通水に成功した。今日の十和田市発展の基礎を築いた。蜜を求めて何羽の蝶が飛び交う!
アフタヌーンだがコスモスを求めて・・・日本銀行券の五千円券の肖像としても知られる、新渡戸稲造は国際連盟事務次長も務められ、“万人等しく学び場を”との願いのもとに農学者で教育者であった。
さて札幌農学校を経て東京大学進学後、「太平洋のかけ橋」になりたいと私費でアメリカに留学、ジョンズ・ホプキンス大学に入学したのである。この頃、クリスチャンの洗礼を受けた。一方、親交を通して後に妻となるメリー・エルキントン(Mary 日本名:万里子)と出会った。
1900(明治33)年、著書 『武士道』は、流麗な英文で書かれ、初版が刊行されると、やがて各国語に訳されベストセラーとなった。
盛夏だというのに、コスモスが咲いていた!その後、数々の学校長を歴任、世界の平和と協力を目的とした、国際連盟の事務次長を勤め、草創期の国連の基盤確立に貢献した。(一部パンフより掲載した)
記念館は残念ながら写真撮影は禁止されてあったが、前の減反水田にはコスモスが咲きアゲハ蝶が舞っていた!
つづく・・・