2010年1月25日月曜日

視覚障害の啓発イベント、あいらぶふぇあ

古河大四郎は日本初の「盲唖院」を設立した
第35回あい・らぶ・ふぇあ下京の四条高倉大丸デパート6階催し場で1月21日(木)から24日(日)まで、視覚障害の啓発イベント、第35回「あい・らぶ・ふぇあ」が開催された。
昭和50年(1975)「あい・らぶ・ふぇあ」は、見えない・見えにくいことへの理解を深めてもらおうと始まったという。半だまそろばんとさいころ算盤
点字が無い時代の文字教育また京都から始まった盲教育の歴史や視覚障害者の方々のさまざまな暮らしの工夫やアイデアもあり、来て!見て!触って!体験するコーナーもあった。コントラストをつけて工夫した
お茶を頂きながら交流が持たれたその中で、お茶を頂きながら普段聞きにくいようなことも気軽に話してくださった「スマイルサロン」もあり交流が持たれた。
知人で洛西ニュータウンに住居している視覚障害者の「松永信也さん」が啓発イベントのメールを送信してくれた。大丸まで来るのに4,5人との出会いがあった
松永さんの本松永さんは故郷、鹿児島県阿久根市出身で、中学の頃より「網膜色素変性症」は知っていたという。京都の大学を出て、子どもが好きなこともあり福祉学校の教師になった。35,6歳のとき、残念ながらあと数年で眼は見えなくなると眼科医に診断されたという!その時のショックは計り知れないものだったと回顧する。
松永さんの著書に「風になってください(法蔵館1400円)」と「見えない世界で生きること(角川学芸出版1500円)」の2冊の本があるが読んでいただきたい・・・・。
また昨年、2月18日収録の「福祉ネットワーク(見えないをあきらめない)」と4月16日収録「生活ほっとモーニング見えない世界で生きること」分のDVDもある。
講演に耳を傾ける100人の方々ところで、松永さんは21日13:30から24日11:00から1時間の講演がある。
「網膜色素変性症」になって視力を奪われながらも毎日明るくバス電車を乗り継いで学校関係の仕事に従事して13年という。
講演では「出会い」コミュニケーションの大切さを解り易く語っていた。
自分で出来ることは自分で行う。たとえ夫婦の間でも関わり持たないというが、全く見えない人に出来るだろうか?と自分を置き換えてみるが不安が先に立つ! 盲唖教育発祥の地の石碑
21日朝、通院先から連れ立って帰る途中、名古屋で高齢の老夫婦が踏切で事故にあった。愛知県警では「踏切でどちらかが倒れ、助け起こそうとして2人とも間に合わなかった」という。これもまた目の不自由なために起きた悲劇であり、最近ほとんど目が見えなかったと近所の方はいう。
年齢を取ると個人差はあっても誰にも現れてくる白内障、高齢の人に多い黄斑変成症という耳慣れない目の症状に日頃留意しなければならない!
京都にはライトハウスと京都府視覚障害者協会(略称京視協)がある。

社会福祉法人 京都ライトハウス   電話075-462-4405
社団法人 京都府視覚障害者協会 電話075-463-8726
住所:京都市北区紫野花ノ坊町11
交通:市バス ライトハウス前下車
         千本北大路下車南へ約50m西側

2010年1月23日土曜日

城南宮 湯立神楽(ゆたてかぐら)

20日、午後2時から恒例の湯立神楽が城南宮で執り行なわれた。湯立神楽は、煮えたぎる大釜の湯を散らすことにより邪気を祓い、無病息災・願望成就を祈願する神事で終了後、希望者に授与所にて福笹が特別授与された。神主が大釜うやうやしく礼拝
城南宮の本殿前に置かれた湯立神楽城南宮は、新築・増改築、転宅など方角にまつわる災いを祓い除き、安心を与えてくださる神として昔から崇められている。雅楽とともに4人の巫女や雅楽よる舞の儀式「祓神楽」が行われた
拝殿には神楽鈴と榊
平安遷都の際、鳥羽伏見の地・都に守護神として創建され国常立尊(くにとこたちのみこと)大国主命(おおくにぬしのみこと)神功皇后(じんぐうこうごう)の祭神を祀っている。
湯立神楽は日本の伝統的な神楽の形式のひとつで、神社によってかなり違いがあるがいまも各地方で執り行なわれている。舞の儀式・神楽巫女が神楽鈴と榊で招福が授かるよう
城南宮の湯立神楽は大釜に湯を沸かし、米・酒・塩を入れ、豪快に笹でかき混ぜながら勢いよく湯をふりまく神事で、湯がかかると無病息災・願望成就のご利益があると言われている。塩、米、最後は神酒を入れた柄杓で天の水を掬って大釜の湯に注ぎいれる所作
神事に使われる大釜は江戸時代後期の銘「文政六癸未二月」(1823)を持つもので、直径70cmもある。その大釜の湯を笹の葉で勢いよく散らして邪気を払い、もくもくと湯煙を立てていた。クライマックスだが、思うような写真が撮れない!御幣を手にして舞った
神事の儀式は、三部構成になっており、最初は神主が本殿に礼拝、続き何度も参拝者も深々と礼拝した。拝殿には4人の巫女や雅楽よる舞の儀式「祓神楽」が行われた。その後、襷掛けの巫女が、儀式に則って「湯立神楽」を執り行った。
まず、「杓取(ししゃく)の儀」といって、柄杓で天の水を掬って大釜の湯に注ぎいれる所作をし、塩を撒いて釜を清め、沸き立つ湯に選米と神酒を入れる。
次いで笛・太鼓の雅楽にあわせて神憑りのように御幣を手にして舞った。
両手に笹の束を持ち、何回も笹の葉で勢いよく釜の湯を散らした! 巫女は参拝者全員ご利益あるように湯滴を散らした
いよいよクライマックスで、両手に笹の束を持ち、何回も笹の葉で勢いよく釜の湯を散らした!
参列は自由で、特に関西地方の民間の神楽で湯による禊祓(みそぎはらえ)の儀式で、この湯滴を浴びると悪病退散、願望成就、無病息災で過ごすことができると古くから伝わる伝統の湯立神楽という神事だという。
参拝客は「招福・無病息災」と記した短冊を結んで福笹を授与された大釜の湯煙に浸ける笹
この笹を持ち帰れば幸運に恵まれ、「方災難除守」・「招福・無病息災」と記した短冊を結んで福笹(有料)とし、参拝客に授与された。また湯にかからなかった参拝者は、大釜の湯煙を足腰や、肩、頭などに撫で付けたりしていた。
城南宮は何度も訪れているが、古代から伝わる湯立神楽は昭和54年に再開したもので、初めての参列で妙を得たと感じた。
<城南宮・湯立神楽>
場所:城南宮 本殿前
時間:午後2:00~
料金:拝観無料
電話:075-623-0846
交通:地下鉄・近鉄「竹田」駅下車、徒歩約15分
    市バス「城南宮東口」下車

2010年1月20日水曜日

生誕125年記念”竹久夢二展”

夢二の大正ロマン夢の世界が京都高島屋7階グランドホールで1月25日まで行われている。
数々の美人画も残されているが、彼自身の独特の美的センスによるもので味のある個性豊かな「夢二式美人画」で画風は綺麗ではないが、その表情豊かを感じた。湖畔舞妓図生誕125年記念、竹久夢二展本名は竹久茂次郎(たけひさもじろう)は明治17年(1884)~昭和9年(1934)日本の画家・詩人で岡山県邑久郡本庄村(現・岡山県瀬戸内市邑久町本庄)の造り酒屋に生まれた。15歳の時に兵庫県神戸尋常中学校入学するが、僅か半年で家の都合で中退した。物思いに深ける女性、味がある桜下五美人
父が家業の造り酒屋を廃業、一家で福岡県八幡村に転居し茂次郎もしばらく製鉄所で働いた。
しかし明治34年(1901)17歳単身上京・家出して翌年早稲田実業学校に入学した。学生時代、スケッチを「読売新聞」などに投稿、第一賞入選、このとき、初めて夢二を名乗った。専攻科中退後、読売新聞社に入社し時事スケッチを担当した。明治・大正・昭和を駆け抜けた竹久夢二
左、林檎と右、平戸懐古明治40年(1907)23歳で2歳年上の岸たまきと結婚・協議離婚、同棲などを繰り返し三児をもうけた。この年、最初の著書「夢二画集-春の巻」発刊、ベストセラーとなった。夏、房総方面に旅行のとき、詩「宵待草」を発想、曲が付けられて大衆歌として受け、全国的な愛唱曲となったことは云うまでもない。
明治45年(1912)月刊「夢二 ヱハガキ」発売や雑誌「少女」誌上に、“さみせんぐさ”の筆名で「宵待草」原詩を発表するなど京都府立図書館にて「第一回夢二作品展覧会」が催された。繊細なタッチで描かれた、夕涼み
日本橋呉服町に「港屋絵草紙店」を開店し、順風のところであったが、夢二30歳、来店した「笠井彦乃」と出逢ってしまった!女子美術学校の学生であった彦乃は裕福に育ち、夢二のファンであり、絵を習いたいと訪ずれ、付き合いが始まった。夢二はたまきと別れ京都に移住、彦乃としばらく同棲するが、大正7年(1918)九州旅行の途中、別府温泉で結核を発病し東京に連れ戻され御茶ノ水の順天堂医院に入院、短い生涯を終えた。夢二は面会を遮断されたという。生涯最も、彦乃を愛しており、死後ショックから立ち直れなかったという。夢二36歳、彦乃25歳大正9年(1920)1月16日である。
夢二、最後の女性、黒船屋はお葉がモデルだったこのころ、秋田の出身で東京美術学校のモデルだったお葉(夢二が名付親・本名は佐々木カ子ヨ)が滞在、同棲が始まった。お葉16歳、夢二37歳渋谷に所帯を持ったが6年後に離別した。
有名な絵画作品で「黒船屋」はお葉がモデルである。
大正15年(1926)42歳この頃から夢二は、海外旅行を欲望した。また群馬県榛名山麓伊香保に滞在し生涯の「榛名山美術研究所」として構想を練る日々だった。
              

昭和6年(1931)5月横浜を出航し、ホノルルを経由して渡米、1年3ヶ月の滞在、西海岸各地にて個展を開くが悉く不調に終った。
舞妓さんの夏姿9月に大西洋を経て渡欧、約1年の滞欧中、諸都市を巡り日本の雑誌に寄稿し、多くのスケッチ画を残したのである。昭和8年(1933)10月台湾に渡るが体調を崩し帰国、結核を患って病床についた。
昭和9年(1934)長野県八ケ岳山麓の富士見高原療養所に入院療養の甲斐も無く、9月1日早暁、「ありがとう」の言葉を最後に永眠、満49歳11ヶ月で逝去した。戒名は「竹久亭夢生楽園居士」。
大正浪漫を代表する画家であり詩人で児童雑誌の詩や挿絵も描いた夢二は、多くの書籍の装幀、広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけており、日本の近代グラフィック・デザインの草分けのひとりともいえる。
さまざまなジャンルに挑戦し女性像や風景画も残されている。夢二は伊香保・榛名の街をこよなく愛した
夢二は中央画壇への強い憧れもあったが叶わず、終生、大衆人気というかたちで新しい美術のあり方を模索つづけた。夢二は「何度見てもけして飽きることのない、ここにしかないものを作る」そのため、創意と工夫を重ねる。代表作「黒船屋」をはじめとする美人画、数々のデザイン画、水彩画、素描などが展示している。
夢二の夢の世界「大正ロマン」は、榛名山産業美術研究所の構想や、先進欧米視察への野望が既にこのときから潜んでいたのかもしれない!
<竹久夢二展>
会場:京都高島屋7階グランドホール
日時:2010年1月6日~1月25日10:00~20:00(25日最終日は17:00で閉場)
料金:一般800円 大高生600円 中学生以下無料
    障害者無料
電話:075-221-8811(会期中無休)

2010年1月18日月曜日

三十三間堂“通し矢”2010

17日、京都東山区の三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)で弓道界・恒例の「大的全国大会」があった。通し矢は新成人男性から始まる
大的弓道全国大会
新成人の晴れ着姿の男女約2000人が、約60m離れた大的(直径1m)に向かい矢を放った。通称、三十三間堂は正式名は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)で後白河上皇が創建した仏堂で、本尊は千手観音である。
緊張の一瞬射距離は60m、的径は1m
平安時代、武士が約120mの軒下を射通す数を競った「通し矢」が起源で江戸時代に競技化され、全国津々浦々から集い競い合う。タスキ掛、指導所に急ぐ九大の学生
門をくぐると堂内は参拝の方々や大的全国大会の人混みで混雑である。
お堂の西庭の特設射場は、さらにたくさんの新成人の晴れ着を着た弓道家や大会競技を見ようとする人で超満員だった。宮城からは東北大学
タスキ掛けてもらう
例年開催されるこの大会は、ことしが現行、60回目という。
日頃、弓道に志す射手たちが「弓の引初め」として京都・三十三間堂に集合する。
襷掛けも凛々しく袴姿や振袖姿で、約60m先にある直径1mの的を射的する姿は、厳粛そのもので弓を引き、狙いを定める間にはまさに威厳がある!笑顔が可愛い新成人新成人は男性948人女性906人合わせて1854人
通し矢は、もっとも盛んになったのは江戸時代で、通し矢がお堂通しになったのは天正年間(1573~1592)と云われ距離は約六十六間(120m)で、現在の倍の長さを一昼夜で何本通すか矢を射る舞台で各藩の弓術家の伝統行事であった。通し矢の賞状を手に記念撮影参加賞を見せてもらった
現在は三十三間堂(*注)「楊枝浄水加持(やなぎのじょうすいかじ)大法要」と正月十五日に近い日曜日に、本堂西側の射程60mの特設射場で矢を射る「三十三間堂大的全国大会」が行われている。
こちらのトリオは弓を引いて写真屋さんが撮影競技終わって三十三間堂をバックに撮影
射距離60m先の直径1mの的に2本の矢を放ち命中を競うもので、60mは弓道競技の「遠的」の射程であり、かつての通し矢とは実際違うのだが、いまも弓道は正確な技術と強い体力や精神力が必要なことから、毎年この時期に開かれているという。
弓を閉まっているところあちらこちらで記念写真撮影をしてる
あでやかな振袖に白いたすきを結んだ新成人らが弓をかざし60m先の的を狙って次々と矢を放った。矢が飛ぶ姿を固唾を飲んで見守り、見事矢が的中すると、場内の観客は大きな歓声と拍手を送っていた。
朱塗りの東門をバックにハイポーズ東京からという彼女たちは静かな場所を選んでいた!
国宝の三十三間堂は「矢」と「弓」を持った方たちで会場は埋まり戦国の風景にタイムスリップしたかのようだ。地元は基より東北の宮城や東京、横浜、九州、愛知、大阪各地の新成人が弓道の上達に来ていた。射的場から出ると、また華やかな新成人の社交の場となる。
新成人の迎えた振り袖・袴姿の色とりどりのたすきがけの女子の競射は正月ならではの華やぎをみせ、京都の風物詩になっている。通し矢が済んだらみな空腹で・・・
手にはたこ焼きを持ちながら・・・また同時に会場の三十三間堂は“頭痛封じ”の「楊枝のお加持」の法要も行われた。:「正月の初水をご本尊の霊力にて7日間ご祈祷。霊木とされる柳の枝で法水を参拝者に灌いでお加持法要する慣わしで、後白河上皇の頭痛平癒にあやかる霊験あらたかな行事で妙法院(三十三間堂は妙法院の頭塔)門主が勤める
堂内はこの日無料開放され会場には多くの観光客や参拝者が詰めかけた。
露店も出て、新成人弓道家の晴れ着姿をカメラに収めようとする素人カメラマンの人達も多く、華やかで賑やかな日となった。
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