2011年5月22日日曜日

御霊祭(ごりょうまつり)巡幸

つづく・・・上京区の上御霊神社の祭礼・御霊祭は京都で最も古いといわれ、時代装束に身を包んだ氏子や牛車や神輿、剣鉾などが同区と北区の一帯で約13kmの行列巡幸が営まれた。
復活して3年目、御霊祭の神輿は高々と差し上げられた
京都御所、朔平門前に勢揃いした三基の神輿江戸時代から御所内を神輿が巡行していたが、都が東京にうつり御所内の巡幸は明治時代に途絶えていた。2年前から今出川御門の朔平門(さくへいもん)に三基の神輿が復活している。獅子舞が頭、その横でスヤスヤ眠る赤ちゃん行列巡幸の先頭は触太鼓
京都御所の北側にある朔平門では三基の神輿が高々と差し上げられると大勢の観衆から拍手が沸いた。
新町北大路上る付近で笑顔が可愛い二人お稚児さんや母親も咽喉を潤していた
上御霊神社の祭礼・御霊祭巡幸は2回目であり、今回は北大路烏丸交差点と北大路新町付近まで足を延した。氏子範囲が広く、その広い巡幸範囲は5コースもあり毎年変更していると耳にした。
朔平門前で左右三ツづつある「大鈴」が自慢の末広神輿威勢のよい掛け声が響くなか、神輿を上下に揺らすと歓声があがった
巡幸行列は約600人で“葵祭”に匹敵するほどで、獅子舞や4つの剣鉾、御剣行列・八乙女や御神宝行列・稚児童子あと牛車、若武者行列氏子町を練り歩いた。巡幸の行列は先頭に触太鼓が来る。氏子地域に三基の神輿が元気いっぱいに練り歩く、威勢の良い「ホイトッ・ホイトッ」の掛け声が街々に響き渡って聞こえてくる。今出川口の神輿小山郷と末広社の神輿
一昨年から復活した、京都御所内を巡行する三基の神輿は午後5時すぎ今出川御門から参入した。御所北門の朔平門前では大勢の人々が見守るなか、神職と法被姿の担ぎ手が拝礼し、担ぎ手たちの威勢のよい掛け声が響くなか、神輿を上下に揺らすと観客からは歓声があがった。
担ぎ手は高々と神輿を持ち上げる今年で3年目になる
ところで、小山郷、今出川口の二基の神輿はホイットー、ホイットーと言う掛け声だが、末広神輿の一基は、速いテンポでエライヤッチァ、エライヤッチァと言う!神輿に男児の姿も見える
午後6時、神輿が夕日を浴びている
左右三ツづつある「大きな鈴」が自慢の神輿で、本殿の形をした刈又の形式、さらに拝殿で暴れるのを防ぎ黒棒に縄を巻いて、その縄を肩にかけ神輿を引き上げる全国でも珍しい祭の担ぎ方といわれている。京都御所に参入する神輿は他に無い今出川通りで河原町方面に向かう
勇壮な神輿の差し上げが行われ、午後6時、今出川河原町方面へと向かい、辺りは熱気にあふれていた。毎年5月18日に御霊祭は行われるため、各氏子町の町衆や参加の子供たちは学校が臨時休業になるという。(完)

2011年5月21日土曜日

御霊祭 上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)

18日、上京区の上御霊神社の祭礼、御霊祭が行われた。
小山郷の神輿
末広神輿は一番最後である
上御霊神社は地下鉄南北線で鞍馬口駅下車、南出口下る東へ約300mに西門・鳥居がある。
神職も馬上に乗って行列参加今出川口の神輿
上御霊神社は俗称で、正式名は「御霊神社」御霊(ごりょう)さんと呼ばれ親しまれている。この御霊祭の起源は863(貞観5)年、平安時代に神泉苑で悪疫退散の神事、貞観御霊会として行われた。神輿は南門から出て行くヤレヤレ、行列に間に合った!
連続する天変地異、天皇の周辺に連続して起こる近親者の死で怨霊(おんりょう)など悪い結果が生じ桓武天皇をはじめ為政者たち共通の思いであった。普通ホットの掛け声だが末広は「えらいやっちゃ」という
御霊祭の幟
800(延暦19)年7月、桓武天皇は早良親王に「崇道天皇」の尊号を贈った。歴史は古く各町内には四基の剣鉾がある
巡行経路は5コースあり毎回異なる!
これが上御霊神社の始まりとされ怨霊を鎮めるために平安時代、桓武天皇の勅願により造られた。 この日は晴天で稚児たちも暑い!
地下鉄北大路駅前で約600人の行列を観た
御霊とは、政争に巻き込まれて非業の死をとげた人の霊のことであり、当時はしばしば悪疫が流行、御霊の祟りと考え祀ったのである。御霊者に「崇道天皇、伊予親王、藤原夫人、及観察使、橘逸勢、文室宮田麿」とあり、神泉苑で御霊会が行われている。牛車
御霊祭は非業の死をとげた人の祭である
2011(平成23)年3月11日の東北・関東大震災、多くの方々の御霊をなぐさめ、その無念の思いを和らげ、その魂を安らかに眠らん!小山郷の神輿は北大路交差点で一周する
若武者天災や疫病が流行すると御霊を祀り鎮め、災いを無くそうとした御霊信仰がある。人間関係や仕事など、ストレスのこころの病気を治して、いつも平常心でいられるように、いまも人々は心を鎮める御霊神社のお守りを授かっている。比叡の山並みも快晴できれいだ
可愛い孫はお爺ちゃんに手を引かれ・・・この日は洛西の病院を出てやっと御霊祭に間に合った。西門鳥居付近前は、露店が並んでいた。既に境内の拝殿には巡行する三基の神輿も飾り付けをして用意を待っている。南の門前で御霊太鼓が威勢よくなり響いた。それから間もなく、神社前を三基の神輿と四基の剣鉾とともに総勢600人の行列がスタートした。
つづく・・・

2011年5月20日金曜日

ヒトツバタゴ

さやかな初夏を迎えるころ、「西京区民・誇りの木」になっている、別名「ナンジャモンジャノキ」の木は一斉に白い花が咲きだした。
モクセイ科ヒトツバタゴ属の一種で、木の名前は「ヒトツバタゴ」という。白い花が一面咲き出した
初夏を迎えるころ「西京区民・誇りの木」ヒトツバタゴが咲いている
洛西高島屋東通路の周辺付近には、真っ白い花が樹木一面を覆い、さながら雪が積もっているのではと、見違えるように感じた!長崎県対馬では約3000本のヒトツバタゴが自生しておる小さな真っ白い花を開き、そよ吹く風になびかせて可憐に咲いている
今年は春先の冷え込みで例年より10日も遅くなったが、例年ならばゴールデンウィークのころに花は満開になる。ヒトツバタゴは同じモクセイ科の「トネリコ(別名タゴ)」に似ているが『一つ葉タゴ』は単葉であり、この和名がついた。真っ白い花が樹木一面を覆い、まるで雪が積もっているのではと・・・花は枝上に円錐状の集散花の配列をつけている
今回は洛西高島屋と西竹の里バス停付近を散策してみた。
よく花を観察すると枝上に円錐状の集散花の配列をつけて、多数の小さな真っ白い花を開き、そよ吹く風になびかせて可憐に咲いている。モクセイ科の「トネリコ(別名タゴ)」に似ていて『一つ葉タゴ』は単葉であり、この和名がついた。 白い花には青空が一番だ
花冠は長さ1.5~2cmで深く4裂、裂片は細く初夏の涼風を感じさせる花として、初々しさ清々しい気持ちになった。秋には、直径1cm程度の楕円形の黒く熟くした果実をつける。花々は季節をもっている名前は不明だがアジサイ?
日本では対馬・愛知や岐阜県木曽川周辺に分布し、自生する珍しい木だという・・・しかし、これらの地域以外でも種が風や野鳥に運ばれ広く自生しているが天然での分布域も狭く、岐阜、愛知、長崎の三県の自生地は国の天然記念物として指定され保護されている。
東京の明治神宮外苑では、名前の不明な珍木で“ナンジャモンジャノキ”と呼ばれていたという。「ヒトツバタゴ」は希少種のひとつであり、日本では絶滅危惧に指定されている。西竹の里バス停付近の並木   
洛西高島屋東通路の周辺の並木洛西は西山山麓も陽射しが映え鮮やかな若緑になった。人気もない“ヒトツバタゴ”の「なんじゃもんじゃのしろい花」が、さやかな初夏をあたえてくれる。
ヒトツバタゴの並木は洛西高島屋東通路の周辺と駐車場、それに西竹の里バス停付近にもある。

2011年5月19日木曜日

写真展 ちいさな仲間たち

下京区のギャラリー&喫茶 繭で、写真展・「ちいさな仲間たち」が開催された。この催しは、京都市山科区に在住する高谷 博氏が年一度、この時期に開催していて今年で7回目である。
下京区のギャラリー&喫茶 繭写真展・ちいさな仲間たち7回の案内状この写真展「ちいさな仲間たち(昆虫)」は蝶を主に撮影しているが、今回、特の眼を惹くのは生まれたばかりのモリアオカエルが印象的だった。またいつも脇役の花の写真なども並べてみたという。お買い求めのあった蝶尾びれのとれたモリアオカエル
高谷氏は「ロフストランドクラッチ」という歩行器を随時着用して、比叡山ガーデンミュージアムや京都府立植物園と滋賀県草津水生植物公園など「ちいさな仲間」や昆虫などを撮影に行っている。
バラ左足は義足ため三脚や望遠レンズの持ち運びなど、重量の負担になり風景写真は不得意だが写真歴は27年になったと話した。愛用のカメラはペンタックス・マクロ100mmを使用、ベルビア100Fのフィルム、グロッシー仕上げした写真の表面に“油絵の具の艶出し盛上げ済”を筆で塗る。写真と絵画を合体した方法である。丁寧に仕上げた作品に出会うことは、写真展の楽しみである。てんとう虫たんぽぽと昆虫、コスモス
今年は5月12日から17日まで写真展がギャラリー&喫茶 繭で行われた。高谷氏とは、京都市洛南身体障害者福祉会館で何度か会う機会あり、毎年この催しのご案内を戴いている。身体障害者福祉センターは山科区にもあるが高谷氏ご夫婦は健康の増進や教養、スポーツなど訪れている。