2011年1月25日火曜日

小泉淳作展

1月6日から24日まで京都高島屋7階グランドホールでは日本画家・小泉淳作展が開催された。東大寺本坊の桜
しだれ桜平城遷都千三百年、光明皇后千二百五十年、奈良・東大寺1260余年にわたる歴史の中で、初めて襖絵が制作された。
5年がかりで40面の襖絵を描いたのは鎌倉の建長寺と京都の建仁寺に天井画を揮毫した日本画家・小泉淳作画伯で現在86歳。
本坊40面の襖絵は、荘厳の世界・命の喜びを謳う“満開の桜”や“蓮池”が描かれている。また東大寺ゆかりの聖武天皇と光明皇后の肖像画も描かれている。
1924(大正13)年、神奈川県鎌倉市の生れで、独自の表現で深山幽谷の山水画や精細な野菜・花の静物画を描いたという。また2000年以降は、小泉画伯は鎌倉市の建長寺法堂「雲龍図」、京都の建仁寺法堂「双龍図」二つの天井画を意欲的に手がけたという。
吉野の桜2004年、東大寺本坊襖絵、「しだれ桜」「吉野の桜」「東大寺本坊の桜」の三作は、桜の花弁が丁寧に彩色されて華麗で輝き出すような迫力が満ちていた。小泉画伯は桜の絵を今までに描いたことがなかったという。何千何万もの花びら一つ一つを描くのに大変であったとビデオで語っておられた。16面の襖絵、蓮池
春爛漫の月光16面の襖絵「蓮池」は、蓮池をそのまま室内に持ち込んだようなもので、いきいきとした蓮の花が色彩豊かに描かれておる。小泉画伯ならではの写実派の丁寧な描写である。
冒頭の襖絵、華厳の美、桜の花びらを一枚ずつ描く小泉画伯、気の遠くなるような作業・根気どの絵にも魅了される。細密な描写力もさることながら筍も蕪もその存在を主張してやまない。しっかり生きているのだと、小泉画伯は墨絵を50歳半ばから描きはじめたのである。若い人たちも・・・
繊細な蕪の描写東大寺の本坊、襖絵の蓮や桜、聖武天皇・光明皇后の肖像は華やぐものがあるが、その中に静けさを感じるものがある。

2011年1月21日金曜日

第36回 視覚障害の啓発イベント「あい・らぶ・ふぇあ」

京都市下京区の大丸京都店6階催し場で、視覚障害の啓発イベント・第36回「あい・らぶ・ふぇあ」1月20日(木)から23日(日)が始まった。琴の演奏第36回あい・らぶ・ふぇあ
視覚障害者福祉の取り組みを紹介する催し「あい・らぶ・ふぇあ」は、見えない・見えにくいことへの理解を深めてもらおうと1975(昭和50)年から開始されたという。ユニバーサルデザインがテーマ
アイマスクことしは「ユニバーサルデザインのある暮らし」をテーマにしている。
来場者の方々は音声案内機能や電子機器を使ったり、目が見えないなかでの作業を体験するコーナーがあり、アイマスクを付けた人たちは、視野の狭まる特殊な眼鏡などでアクセサリーやパソコンでの作業の難しさを体験して便利なタッチ・メモいた。
パネルで鳥居さんやヘレン・ケラーを紹介京都から始まった日本の盲教育の歴史は、「盲人の父」と呼ばれた鳥居篤治郎をパネルで紹介している。1894(明治27)年、京都府与謝郡野田川町(現・与謝野町)に生れた。6歳ごろには完全に失明したが、その後市立盲唖院入学、20歳のときに東京盲学校師範科に進み学んだ。工夫がされたそろばん
左右対称文字私財を投げ出して設立した京都ライトハウスは、昭和45年9月76歳で逝去するまで、京都、日本のみならず世界の視覚障害者福祉のためにも貢献されたのである。また1955(昭和30)年に来日したヘレン・ケラーが府立盲学校を訪ねたときの音声記録も公開している。
講演の松永信也さん洛西ニュータウンに住居している知人の視覚障害者「松永信也さん」が啓発の講演があった。故郷は鹿児島県阿久根市出身で、中学の頃より「網膜色素変性症」は知っていたという。京都の大学を出て、子どもが好きなこともあり福祉学校の教師になったという。松永さんは若い時代からもバスや電車で老人や妊婦などみると進んで席を交代していたというが、盲人の方にはなかったと反省する!
39歳のとき、目は完全に見えなくなると眼科医に診断されたという、そのショックは計り知れないものだったと回顧する。小4の児童が書いた、見えないことへの絵
いま松永さんは咳が出て町の医者に行ってるが、そこは何年も前から行っていたので手に取る様に判っていて不自由さは無く看護師が気を使ってくれるという。医師は、イスの音を叩いて報せてくれるという。「網膜色素変性症」になって視力を奪われながらも毎日明るくバス・電車を乗り継いで日本全国講演のお仕事に勤しんでいる。
松永さんの講演は23日10:30から1時間の講演がある。また著書に「風になってください(法蔵館1400円)」と「見えない世界で生きること(角川学芸出版1500円)」の2冊の本がある。あい・らぶ・ふぇあは初日にもたくさんだった
鳥居篤治郎さんの勲章2月6日(日)に第21回「京都視覚障害者文化祭典」が10:00~16:00行われる。
会場は京都ライトハウス4階ホールで主催、京都府視覚障害者協会、入場料は無料。
<視覚障害の啓発イベント「あい・らぶ・ふぇあ」>
日時:2011年1月20日(木)~23日(日)10:00~18:00(最終日は17:00まで)
場所:大丸京都店 6階 多目的ホール
お問合せ:京都ライトハウス内「あい・らぶ・ふぇあ実行委員会」

2011年1月18日火曜日

皇后杯第29回全国都道府県対抗女子駅伝

丸太町通で1着の栃木の小林さん
西京極競技場をスタートする47都道府県選手たち 厳しい寒さに震える16日、午後12時30分京都市右京区の西京極陸上競技場を発着、宝ヶ池・国立京都国際会館を折り返す9区間42・195kmのコースで全国都道府県の代表チームが参加して行われた。比叡山には雪が・・・
左・宮城の佐藤さんと鹿児島の安富さん 大会は、最強の寒波襲来で過去の中で最も寒いレースになり最高気温は過去最低の2.9度、だが号砲がなるころには俄か雪も小止みになった。兵庫、翁田さん
左・宮崎竹之前さん大阪、大森さん一区は6km、屈指のスピードランナーを揃えた各チームは競技場を後に国道9号線五条通りへと走り出して、平野神社前第一中継所と向かった。左、埼玉の藤ノ木さんと牧島さん
地元京都、牧さんその頃筆者は、阪急西京極駅~地下鉄南北線を乗り継ぎ烏丸丸太町下車、第2中継所烏丸鞍馬口でタスキを受け取った選手が1,2,3人と京都御苑の間ノ町口前を通過していく!
早いー!!!
直ぐ丸太町駅に引き返し、居り返し地点・国際会館へ直行した。京都新聞から号外が出された
比叡の山並みも積雪で白く、左京区岩倉あたりの気温もグッ~と下がって寒い感じがする!
それにも増して全国対抗駅伝の市民の応援の人たちが沿道をうずめ熱く声援を送っている。
待つこと10分、第4区のランナー兵庫県が1着続いて2着は福岡3着は神奈川、お目当ても地元京都は6着であった。第5区中継所、国際会館前いよいよ、折り返し点である。
地下鉄車内でメガホンを持った5人連れのご婦人にあった。
「何処の応援か?」聴くと沖縄と応えた!
そういえば、一人のご婦人が太鼓持っていた。アンカーの福士選手は余裕綽々でゴール
雪が降る悪天候の中、熱心に見つめるフアン再度、西京極競技場に戻り場外テレビを見るとアンカーのランナーが余裕のスマイルで西大路五条を向かっている。スタンドにはたくさんの駅伝フアンがおり寒さもなんもその威勢の良い檄を飛ばしていた! アンカーが続々と戻ってくる
岩手のアンカー那須川さん厳寒に震える都大路を制したのは地元・京都で6区、首位に立ち2時間17分16秒で2年ぶりの優勝で大会14度目である。
筆者のふるさと岩手だが、ことしはアンカーの粘りでなんとか最下位は免れた。13人の韋駄天たち
皇后杯は初めて手にしたその後、体育館で表彰式が行われ京都チームに初めて皇后杯が授与された。
また区間賞を受けた9人の選手(注・5区2人)、8位まで入賞した方に賞が手渡された。優秀選手には4区を走った兵庫の小林、5区を走った京都の菅野、それに京都アンカーの福士の3選手が選ばれた。中高校生を対象にした賞、未来くんは東京の関根と岡山の菅華の2選手に決まった。メダルは各三位まで
区間賞の10人震災で16年目を迎える兵庫県は、惜しくもアンカーが9位で入賞果せなかったが安定した力を持ちきらりと光るものがあった。

2011年1月14日金曜日

祇園 初寄り

祇園甲部の花街で1月13日、京舞井上流五世家元の井上八千代師宅に、芸妓さんや舞妓さんが稽古始めの挨拶に伺った。カラフルな衣装
初寄り
この一年の始まりを迎えるにあったて益々技芸の上達を励んで、井上邸に集まり新年の挨拶と共にお雑煮で祝う。これを“初寄り”と呼んでいる。今年一年よろしくお願いします
タクシーが邪魔をする!この日、厳冬の最中、芸舞妓たちは和装姿も華やかに身を包み、髪飾りも艶やかに師匠へ新年の挨拶に訪れた。
舞の稽古、頑張らなくちゃ!師走13日の“事始め”で一年の締め括りをして、正月準備を始めた芸舞妓たちは、新年の“始業式”を終えて一と月後、再び師匠宅へ顔を揃え一層の精進を誓い、お屠蘇と雑煮で新年を祝い、師匠から励ましの言葉を受け、新たな気持ちで一年が始まった。
舞妓さんは後から入る京舞井上流五世家元の井上八千代さんは父は人間国宝の観世流能楽師九世片山九郎右衛門の長女として生まれた。祖母で人間国宝だった京舞井上流四世井上八千代(平成16年3月19日98歳没)に師事し、平成12年に京舞井上流五世家元を襲名した。
中々、顔が撮影出来ない!井上流は、寛政年間(1789~1801)に近衛家の舞指南役を勤めた井上サト(初世井上八千代)が宮廷文化を基盤に創始したという。以来二世紀の歴史を持ち、祇園甲部の正式唯一の流派で、京都固有の特色を持つ井上流を特に『京舞』と呼び、京都の年中行事となっている「都をどり」を支えているのも京舞井上流だという。女将さんとあいさつ
日本舞踊の「舞」の起源は「水平の動き」で、一人の人の心を伝えることから始まったという。一方、「踊り」は「垂直の動き」で、集団で始まったという。基本姿勢は、腰を落とすとともに、すり足、体の芯を残したまま回る動きだと師匠の家元がいう!
だが今は、舞も踊りも重なり合う部分が多く、舞の中にも踊りに近い部分があるという。三人の舞妓さん
白川巽橋で・・・祇園花街の”初寄り”カラフルな着物衣装姿が見られ、冬空のもと新春を感じさせる思いがした。井上邸前はアマチュアカメラマンが約100名ほど舞妓さんたちや芸妓さんが来るのを待っていた。