2009年10月31日土曜日

方広寺(ほうこうじ)

木造盧那舎佛坐像(眉間籠り佛)を本尊。焼け跡から大仏の眉間にあった仏様が残った
本堂に安置されている大仏方広寺は、京都市東山区にある天台宗山門派の寺院である。
大日如来、大黒天を祀っている。
木造盧那舎佛坐像(眉間籠り佛)を本尊とし、天正14年(1586)に秀吉公により創建された方広寺の大仏は、前面82m・側面57m・高さ50mの大仏殿の中に漆を塗り金箔を置いて彩色された19mものであり、奈良・東大寺の大仏より18mも大きかったという。しかし、慶長元年(1595)の大地震により破壊し、同7年に炎上した。国家安康の大梵鐘で問題となった銘文が刻まれている大仏殿の欄間にあった左甚五郎の龍
その後、同15年に徳川家が勧めて、秀頼公に豊太閣の追善供養にと19mの金銅大仏を再興させたが、この大仏も寛文2年の地震により倒壊した。
この大仏は徳川家により寛永通宝に改鋳され、特にその貨幣は寛文の文の字が刻まれ、文銭・大仏銭と呼ばれた。その代わりに同4年に木造の大仏が造られた。しかし寛政10年、落雷により焼失、天保14年、尾張を中心に伊勢・美濃・越前の人々の寄進により木造半身の大仏像が祀られた。昭和48年度重なる火災で消失し、現在は本堂・大黒天堂・大鐘楼を残すのみとなった。「国家安康(こっかあんこう)」と「君臣豊楽(くんしんほうらく)」の銘文が読み取れる
国家安康の鐘は慶長19年(1614)に鋳造され京都三条釜座、名古屋三昌によって完成された。しかし、この大梵鐘が豊臣家滅亡への加速剤となってしまった。秀頼は、梵鐘名文を京都南禅寺の禅僧文英清韓(ぶんえいせいかん)に依頼。この鐘に刻まれた「国家安康(こっかあんこう)」と「君臣豊楽(くんしんほうらく)」が徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒涜するものと故意に曲解して読み取り、大仏開眼供養の延期を命じた。さらに因縁をつけ元和元年(1615)大阪夏の陣を起こし豊臣家を滅亡させた。戦いに破れた淀君と秀頼は自害した。大黒天堂の天井画
淀君の怨念が幽霊になって残ったものと言われているこの大梵鐘は重要文化財に指定されており、東大寺、知恩院とあわせ日本三大名鐘の一つとされている。また大仏七不思議の一つとして、大梵鐘の内部に白い雲のようなものがあり、東側には人が立っているように見えるが、これは淀君の怨念が幽霊になって残ったものと言われている。ちなみに国家安康の鐘の寸法は高さ4.2m外径2.8m厚さ0.27m重さ82.7t。手前の大黒天の頭上の奥に小さく見えるのが秀吉の持仏像「大黒天」  耳塚、秀吉の命により供養の儀がもたれた
大黒天堂に入って観た!堂内に安置する大黒天は豊太閣の護持佛であり、桓武天皇の勅命により最澄(伝教大師)が延暦寺を建立するため比叡登山中のお告げにより彫刻されたと伝えられる。その像を秀吉が気に入り1/10サイズで作らせ手元に置いたとされる。小さい像ととも大黒天堂に安置されているが中は大変暗く、照明も無い。いざ戦場に赴き、顔も凛々しいが「臼」に乗っている姿が珍しい! 方広寺入り口の巨石で、大仏殿石跡の石碑大仏殿跡は今は公園になっている
方広寺は豊国神社に隣接しているが、境内の鐘楼を見るだけで帰る人が多くみられ本堂を拝観する人は少ないように思えた。また、近くを散歩していると大仏殿跡が公園になっている。2000年の発掘調査によると東西約55m、南北約90mの規模であったことが判明している。
<方広寺>
・住所:京都市東山区大和大路通七条上ル茶屋町527-2
・拝観:境内自由(本堂拝観:大人200円 鐘楼:100円) 
・交通:市バス「博物館・三十三間堂前」下車、北へ徒歩約3分。
     京阪電車「七条」駅から東へ徒歩約10分。
・ 障害者車いす 本堂、鐘楼拝観不可。

2009年10月23日金曜日

京都 時代祭

京都三大祭りの最後を飾る時代祭が22日、華やかに催された。平安遷都から1,100年目にあたる明治28年、明治維新で活気を失った市民は京の街を盛りたてるため、平安京を造営した桓武天皇を祭神として平安神宮が創建された。
徳川城使上洛列
笛や太鼓を奏でる維新勤王隊列人々の熱意の象徴として、その意志は京都の誕生日10月22日に「一目で京の都の歴史と文化が理解できるものを」「他の都市には真似のできないものを」というもので、京都人の心粋きと誇りが織り込まれている風俗史の時代行列を華やかに盛り上げた。吉野太夫
皇女和宮爽やかな秋晴れの下、明治維新から平安時代へと遡る約2000人の行列が、華やかに都大路を練り歩いた。
平安神宮(左京区)で神事を営んだ後、祭神を移した2基の鳳輦(ほうれん)を連ねる神幸列があり10:00頃京都御苑(上京区)建礼門前在所に到着した。 織田信長は戦乱で荒廃した京都を復興した
豊公参朝列、当日だけ許された特別な装束の大名時代行列は正午に京都御所の建礼門前を出発、軽やかに「ぴ~ひゃら」と笛や太鼓を奏でる維新勤王隊列を先頭に、丹波からは官軍派の山国隊。
桂小五郎や坂本龍馬・中岡慎太郎、幕末の志士が続く。 室町時代後半、京町衆は風流踊りが流行った!
室町幕府執政列江戸時代は徳川城使上洛列、武家風俗を代表する大名や安土桃山時代の武将は織田信長や羽柴秀吉・柴田勝家など、室町幕府、足利将軍や洛中風俗列では風流踊り。吉野(南北朝時代の南朝方)楠木正茂、衣冠装束や甲冑(かっちゅう)姿で堂々と歩いた。安土桃山時代、内掛け姿の淀君
中世に隆盛した装飾性の高い大鎧や甲冑、勇ましく行進中世婦人列では大原女や桂女、淀君さらに静御前、江戸婦人列たちは和宮・大田垣蓮月や吉野太夫など優美な十二単(ひとえ)や清らかな小袖姿を披露した。巴御前は騎馬姿で!
城南流鏑馬列、的抱え、独特の刈装束で登場鎌倉では城南離宮で行われた流鏑馬の装束。
平安時代中期、藤原氏が最も隆盛した時代の文官・武官の夏装束や、平安時代の紫式部・清少納言や小野小町・巴御前も現れた。才女、小野小町
平安時代を大きく変化した清少納言・紫式部さらに歴史は遡り桓武天皇平安京遷都延暦の頃へと続いた。美しい羽が目を引く前列
延暦文官官行進列祭神の乗る「ご鳳輦」白川女献花列、最後は弓箭組列、平安遷都の警備に当たる。
平安神宮の御神霊を移した乗輿・御鳳輦が巡行する長さ約2キロの行列は正午に京都御所を出発。
烏丸通や御池通を進み河原町通を左折、三条大橋渡り神宮道で左折して大鳥居をくぐり平安神宮に到着した。行列の警護役は弓術盛んな丹波の南桑田・船井の人々
白川女の献花列京都の三大祭(葵祭・祇園祭)の町おこし事業の集大成として、沿道に詰めかけた大勢の市民や観光客に魅了した。時代行列は過去戦争や天災などで中止の年もあったが今年で105回目を迎えた。大パノラマは終局迎えた
近衛忠煕、幕末・維新期の公卿豪華な大行列は8つの時代に構成され、行列数は当初の6列から今では20列に増え人員約2000名牛馬76頭、京都御所~平安神宮約4,5kmの道のりには広大な大パノラマが展開した。 錦秋の京都の歴史絵巻が彩る伝統祭事・時代祭である。
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2009年10月21日水曜日

阿弥陀寺 “花曼荼羅”

本堂
織田信長公本廟の石柱が建つ山門門前に「織田信長公本廟」の石柱が建つ阿弥陀寺(あみだじ)は、寺町通今出川を北へ500mほどのところの東側にある。
天文年間(1532~1555)に清玉(せいぎょく)上人が近江(滋賀県大津市)の坂本で開創したのが始まりである。柔和な顔の阿弥陀さま
本堂にふさわしい天井絵浄土宗鎮西派の寺院で山号:蓮臺山(れんだいざん)院号は捴見院という。
本尊は丈六の阿弥陀如来で阿弥陀寺には、織田信長、織田信忠父子が祀られている。山号:蓮臺山(れんだいざん)院号は捴見院という
極楽浄土を想像したという花曼荼羅先日、新聞で取り上げられた、極楽浄土をイメージして天井画が完成され19,20日に一般公開された。5年がかりで完成した阿弥陀寺の天井画は縦4m、横6m126枚の杉板に描き大輪のハスの周囲を、花々が彩る「花曼荼羅」となっている。織田信長ゆかりとされることから、織田家の家紋「織田木瓜」も入っている。阿弥陀さまにふさわしい天井画「花曼荼羅」に訪れた方々は“極楽浄土”に見入っていた。
織田信長公本廟所 略記
清玉上人により、天文年間(1550年頃)近江・坂本にて開山。その後、織田信長公の深い帰依を受けて京に移転。京における織田氏の菩提寺として、芝薬師・蓮台野(現在の中立売大宮付近)を中心に八丁四方の寺域を有する大寺院となる。
天正10年(1582)6月2日、信長公宿所・本能寺館を明智光秀公が急襲。清玉上人は報せを受けて本能寺に駆けつけるが、信長公自害の後であった。仕方なく信長公の遺骸を火中に投じ、阿弥陀寺に持ち帰り供養した。
向かって右が織田信長、左が信忠の墓森蘭丸ら三兄弟の墓同日、明智光秀公の許可を得て、織田氏の菩提寺の勤めとして、本能寺と二条城で討死された多数の織田家中の遺骸を供養、埋葬。その後、羽柴秀吉公が三度、信長公の法事執行を清玉上人に申し入れるものの、清玉上人は断じて受けず、秀吉公は憤り、他寺に新たに一院を建立して法事を執行した。そして織田氏は阿弥陀寺への墓参を禁じ(織田氏末裔伝)、阿弥陀寺の寺域を大幅に縮小、現在地に移転。阿弥陀寺と大檀越の織田氏との縁は切られた。阿弥陀寺は疲弊するが、時の帝・後陽成天皇は勅願所として多くの公家を檀越とし擁護され、また森氏はじめ本能寺と二条城で討死された方々の親族や、京の町衆の檀越らの協力によって法灯を継承してきた。後陽成天皇勅額はじめ信長公像・信長公手槍・信長公鞍覆など多く織田家ゆかりの寺宝が現存する。
阿弥陀寺パンフレットより
本堂には、織田信長、信忠父子の木像等が安置され、墓地には織田信長、信忠や森蘭丸ら三兄弟の墓、本能寺の変討死衆の墓がある。
毎年6月2日に(「信長忌」)堂内拝観と併せて寺宝公開されている。
阿弥陀寺の勅額境内には俳人芭蕉や蝶夢の句碑もある。帰白院に住持した天明の俳人 幻阿蝶夢(げんあちょうむ)五升庵(ごしょうあん)の墓、本能寺の変で討死した諸臣約120名の墓、江戸時代の儒者 皆川淇園(みながわきえん)の墓もある。
寺の多い、京都寺町では、この阿弥陀寺は比較的小さな寺である。
戦国武将の織田信長の墓として年代がつよく感じられた。
阿弥陀寺
住所:〒602-0802 京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町14
TEL:075-231-3538
拝観:境内自由
交通: 寺町今出川バス停より徒歩10分

2009年10月19日月曜日

野宮神社・斎宮行列

竹林の小道を斎宮行列
野宮神社でお輿に乗るところ18日の日曜日、嵯峨・嵐山の野宮神社に斎宮行列を観に行った。
正午に野宮神社を出発した行列は美しい竹林の小道を通り、JR嵯峨嵐山駅前、渡月橋を経て、大堰川岸で神事が営まれた後、御禊の儀が華麗に再現された。監送使・官人・女官など150の行列
お輿に担がれた斉王斎宮は伊勢神宮にお仕えする未婚の皇女で、「斎宮(斎王)」とは、天皇が即位するごとに、天照大神の御杖代(みつえしろ)として伊勢神宮に遣わされた斎王(未婚の内親王もしくは女王)のことで、飛鳥時代の天武天皇のころすでに確立されていた。南北朝時代の後醍醐天皇まで約660年間、64人の斎宮が遣わされていたと伝えられている。雅な平安装束に身を包んだ一行が記念撮影
JR嵯峨嵐山駅前では輿から牛車の乗り代った!伊勢参拝前に三年間こもる潔斉所(けっさいしょ)が野宮神社付近にあったことから、1990年から地元の斎宮行事保存会などが行列を催し、本年は11回目になる。渡月橋も人並みで溢れている!
斉王群行は渡月橋を渡る斎王が任命を受け、都から伊勢へと向う旅が「斎王群行」と呼ばれるもので、斎王以下監送使、官人・女官などあわせて数百人にも及んだとされている。当時斎宮行列が伊勢まで到着するのに5泊6日も要した。 十二単姿に着替えた石原さんは緊張の面持ち
御禊の儀が華麗に再現された斎宮が京都を出発する前に身を清め、野宮神社周辺を輿に乗った十二単(ひとえ)姿の斎王代・女官や官人など華やかな装束を身にまとった行列が、平安絵巻さながらの雅な風情で嵯峨駅周辺や嵐山・渡月橋一帯を約2時間かけて練り歩いた。
伊勢神宮に向かう「斎宮行列」のヒロイン・斎王代の高校2年の石原さん(17)はこれまでの最年少である。十二単姿に着替えた石原さんは10年前に火炬小女(ひたきのしょうじょ)役で行列に参加した思い出もあるという! ヒロイン・斎宮代の高校2年の石原さん
斉王代は17歳の石原さん大堰川岸で行列のヒロイン「斎王代」が流れに手を浸す“御禊の儀”を行うと、平安絵巻はクライマックス。訪れた観光客や写真愛好家らは盛んにシャッターを切っていた。斎宮行列は約150人で、正午に同神社を出発し3時半ごろ嵯峨・嵐山野宮神社で往時の夢を再現して約3キロを巡行して幕を閉じた。
その他の写真