2010年4月30日金曜日

城南宮 曲水の宴(4/29)

平安時代の優雅な歌遊びを再現する「曲水の宴」が4月29日、城南宮において催された。七人の歌人と神官羽觴と盃、山吹の花をいれて流す
都の南に国の守護神として創建された城南宮は、鳥羽離宮として栄え、当時60万坪の広大な造営地であった。歌人と巫女たち
今回の歌題をみる歌人平安時代の頃よりこの地は交通の要衝でもあり、風光明媚な鳥羽離宮に平安貴族たちは王朝文化の歌会や宴、船遊び競馬(くらべうま)など雅遊したという。鑓水のほとりに着座した歌人
羽觴の盃を鑓水にながす春の風物詩として毎年29日に行われる曲水の宴、春暖の陽気は古代から人々の心をはずませて、野山や川原に出て身を清めてくれる。春の禊は、奈良・平安時代に遡り貴族の姫の雛(ひいな)かざりに発展し桃の節句になったという。和歌の墨を磨る
正木社中で筆曲「曲水の宴」は、平安貴族の歌遊びを再現したもので庭園の曲がりくねった川(遣水)のほとりに平安装束の人々が座り、川上から童子が、鴛鴦(おしどり)の姿をかたどった「羽觴(うしょう)」の背に朱塗りの盃をのせて流すもの。童子は和歌を集める
和歌を詠み短冊にしたため、流れてきた盃を取ってお酒を飲む歌人は「羽觴」が流れつくまでに和歌を詠み短冊にしたため、流れてきた盃を取ってお酒を飲む……という、優雅な行事、十二単の女官、狩衣に立烏帽子の公卿たちが、曲がりくねった川(遣水)のそばに着座。庭園の入口にあった、「ときわマンサク」の花
披講(和歌朗詠)も済み退場する歌人この日の題は900年前に、歌人源師時(もろとき)が歌会で取り上げた『寄衣恋きぬによするこい)』にちなんで和歌をしたためた。公卿や女官にふんした歌人七人が遣水に流された羽觴の酒杯を取り上げ、杯を飲み干しヤマブキの花を杯に入れて流れに戻した。
   『風そよぐ 若葉に映えつつ城南宮 袖ひるがへす 天つ乙女か』
宴の間には、袴姿の女性が雅楽の調べにあわせて、凛々しく「白拍子の舞」を披露した。巫女や水干姿の可愛い童子が、歌人たちのお手伝いをする場面や正木社中で琴の演奏もあった。雅楽の調べにあわせて凛々しく「白拍子の舞」
快晴で参観客は2000人新緑に包まれた庭園で、風情のある「曲水の宴」の和歌が披露され、集まった参観客らは“流觴曲水”の宮中儀式に見入っていた。
羽觴」(うしょう)と云う盃は、(羽は鳥の羽根、觴は盃の意味)=羽觴は京都御所に伝わるもので、素朴で洗練された味わいがあるという。
<城南宮 曲水の宴>
住所:京都市伏見区中島鳥羽離宮町7
日時:2010年4月29日(木)・14時~15時 ※雨天の場合は変更
  ※当日、平安の庭がある神苑は無料公開
交通:地下鉄烏丸線『竹田駅』/近鉄京都線『竹田駅』徒歩10分

2010年4月28日水曜日

鳥羽の藤-2010-

鳥羽水環境保全センターのフジ棚の回廊と芝桜
フジ棚鳥羽水環境保全センターではフジの花の咲くころ、恒例の一般公開を開催している。フジ棚の下で・・・
甘い香りがする今年は23日から年に一度の施設公開が始まった。昨年は、4月20日過ぎからフジが満開になり魅了したが、今年は低温の影響で開花のペースは遅れている!応えようのない美しさ
フジの花が降るように鳥羽下水処理場のフジ棚は、市民に親しまれる処理場を目指して整備され、フジ棚は全長120mもあり、この中にノダフジ、ヤマフジ2種(3品種)37本が植えてある。地面に椿の花
葵祭に欠かせない「かつら」京都市の下水道事業が開始してから80周年を迎えることから、今年は3日間延長し一週間とし29日が最週日になった。
しかし、気温の上昇がみられずフジの花は一進一退、やっと28日快晴を迎え5,6分咲きの模様だ! 好天でフジが笑っている!
新緑ともみじ全国4位の規模を誇る広大な敷地を有し“藤の名所”として親しまれている、全長120mのフジ棚は幅2.5mの回廊から垂れ下がる紫紺の花房を目当てに市民が訪れていた。
フジ棚は見ごとだが緑も多く他にも400本の樹木がある小さな森も散策した。
<鳥羽水環境保全センター>
無料公開
開場時間 10:00~16:00(入場は15:30まで)
交  通 市バス特18・43号系統「上鳥羽馬廻」下車、徒歩約10分。
     ※なお、公開は4/23日(金)~29日(木)の7日間。

2010年4月27日火曜日

松尾大社(神輿・川渡し御祭)

つづく・・・松尾大社は鎮座1300年を迎える京都最古の神社で、上賀茂神社・下鴨神社とともに王城鎮護の社である。約10万戸の氏子をもつ洛西の総氏神で、またお酒の神様としても有名で酒造業者から信仰を集めている。月読社も昔は神輿はあったが、洪水で流され唐櫃になった桂離宮の西方に着き、桂川を渡る船渡御
4月の第四日曜日に行われる「神幸祭(おいで)」では、大社を出た六基の神輿が桂離宮の西方に着き、桂川を渡る船渡御(ふなとぎょ)があり多くの人々で賑わった。
この川渡りは、千年の歴史を持つ松尾七社の(大宮社、月読社、櫟谷社、宗像社、三宮社、衣手社、四之社)神輿六基と「月読社の唐櫃(からびつ)」は、本殿の御分霊を受けて拝殿を三回周回(拝殿廻し)後、順次社頭を出発した。 船に乗せたり降ろしたりのバランスが難しそうである
桂離宮、桂川西岸の川岸から桂川に降りる本殿前で神輿を高々と持ち上げ、拝殿を周回する時には、白い法被を着た威勢の良い輿丁(よちょう)たちの「ホイット、ホイット」の大きな掛け声とともに、シャンシャンと鳴る神輿を上下に揺らす勇壮な姿がみられた。船渡御はゆったりと男衆は神輿を護る
神輿朱の御衣が水面に映えて壮麗松尾大社を出て、桂離宮東横の桂川西岸の川岸から桂川に降り、船渡御に向かう。船渡御は、一時中断されたが1983(昭和58)年に再開された。その昔、先人たちは桂川の中を神輿を担いで渡ったと言われている。
桂離宮西対岸から六基の神輿が順々に船で川渡しをする。
月読社も昔は神輿はあったが、洪水で流され唐櫃になったと言われている。キラキラ光る川面を進でくる神輿
手漕ぎの神輿を中に両脇には和船神輿は重量1~3トンで和船に乗せ、東対岸に一基つづ神輿と人を運んだ。
神輿を乗せた神船は手漕ぎ船で、輿丁の氏子たちはモーター付きの和船、桂川の川幅は約200m位、神船は船頭が櫓を漕ぎゆったりと優雅に、柔らかな陽射しのもと春風を受けキラキラ光る川面を進んでくる。晴天の船渡御
リーダーの掛け声でリーダーの掛け声で一斉に輿丁たちが、神輿を上に挙げ隙間を作ると船はスーと抜けていく、また対岸に戻り次の神輿を運ぶ。
白い法被を着た輿丁たちは、「ほいっと・ほいっと」と威勢よく、足は踊るように跳ねながら、掛け声で担いでいた。
船渡御は1~3トンもある神輿を船に乗せたり降ろしたりのバランスがなかなか難しそうである。ダイナミックなこの祭りは勇壮で神輿川渡しはハイライトだ!
松尾大社の祭り御輿を勇壮に担ぎ、船に乗せて対岸に運ぶという伝統的な行事に約3時間も要した。雨天でも決行しているが、今日は雲一つ無い快晴で、神輿川渡しをするのは、又とない!川渡しをした六基の神輿を揃え、一先ず一服!
桂大橋上下には大勢の観覧者が訪れていた1996(平成8)年には、神輿の川渡しが行われる御船、駕輿丁船(かよちょうふね)二隻が復活した。桂大橋上には観覧の人たちが大勢、橋下には縁日が立ち並び、運ばれて来た六基の御輿が誇らしげに飾り付けられていた。
1000年の伝統をもつ神幸祭、船渡御は水面の色に神輿の朱の御衣(おきぬ)が映えて壮麗だった。(完)

2010年4月26日月曜日

松尾大社 神幸祭

京都四条通りには西に松尾大社がある。
洛西の総氏神・醸造の祖神としても親しみが松尾大社は、赤色の大きな鳥居が見え酒の神様を奉っていて入口に大きな徳利がある。榊御面稚児奉告拝殿の前の混雑!
参道を進むと二の鳥居があり、赤鳥居の上部には榊の小枝を束ねたものが数多く垂れ下がっている。これを「脇勧請」と称し、月々の農作物の出来具合を占った太古の風俗を今に伝えている。
正面の楼門をくぐると、一ノ井川が流れ川面に約3000株のヤマブキが群生し、例年4月10日~5月5日まで「山吹まつり」が開催されている。楼門から拝殿、本殿と一直線に並んでいる。四之社は準備中
櫟谷社の神輿京都最古の松尾大社は、秦一族の氏神として祀られたのが始まりで、四世紀から六世紀ごろ韓半島から大挙して渡来し、瀬戸内を東上して山城国葛野郡に入植した。
701(大宝元)年、秦忌寸都理(はたのいみきとり)が松尾山頂の磐座(いわくら)を麓へ勧請し、一族の氏神として社殿を建立、秦氏が神職を受け継いできたのが起りとされている。なお、弟の秦伊呂具(はたのいろぐ)が、711(和銅4)年、伏見稲荷大社を建立している。本殿では巫女が神楽を舞う
飾り付けもまだのようだ!松尾大社は平安遷都以前からの神社で、平安期は賀茂神社と並び王城守護の社として大切にされ東の「賀茂の厳神」、西の「松尾の猛霊」と称された。醸造祖神として崇敬を集め、全国の酒造業者から奉納された酒樽が拝殿横にある。境内の亀の井の水は、酒の元水に混ぜると酒が腐らないという伝えがあり酒造・醸造業者が酒水に混ぜる風習が生まれた。
松尾大社の祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)の2座で、大山咋神は上賀茂社、賀茂別雷神の父神である。祭はいよいよ、これから・・・
威勢の良い輿丁(よちょう)たちのかけ声とシャンシャンと鳴る 松尾大社は現在、4月20日以後の第一日曜日、松尾祭・神幸(おいで)祭、21日後に還幸(おかえり)祭が行われた。
平安時代の貞観年中から“川渡しの御船”神幸祭神輿渡御祭が行われた。
千年の歴史を持つ、松尾七社は(大宮社、月読社、櫟谷社、宗像社、三宮社、衣手社、四之社)の神輿六基と「月読社の唐櫃(からびつ)」、本殿の御分霊を受けて、拝殿を三回周回(拝殿廻し)後、順次社頭を出発し、松尾・桂の里を通り桂離宮横の桂川を対岸に向けて船で渡御する様子は勇壮華麗にして圧巻だ!! 黄金色に輝くヤマブキの花
宗像社の面々川を渡り、左岸堤防下で七社勢揃いし、古例の団子神饌を献じた後、七条通り(旧山陰街道)を東進、四基の神輿と唐櫃とは西七条御旅所に、二基の神輿は川勝寺と郡の末社に至り、そこに駐輦される。
西七条御前(七条御前下ル)各御旅所まで巡幸する神幸祭である。つづく・・・
<松尾大社>
住所:京都市西京区嵐山宮町3 電話:075-871-5016
境内参拝自由:5:00~18:00 
   庭園拝観は9:00~16:00で大人500円(休日は17:00まで)
交通:市バス 28番 京都バス73番松尾大社前下車すぐ
    阪急電鉄嵐山線松尾下車すぐ

2010年4月22日木曜日

行願寺(革堂) (ぎょうがんじ(こうどう))

西国三十三ヶ所観音霊場の第19番札所である行願寺は、京都御所の東南、寺町通丸太町を南に入った東側にある。行願寺「本堂」山門から正面に本堂、境内には巡礼の姿がみられる
天台宗延暦寺派 霊麀山(れいゆうざん)行願寺は、通称革堂と呼ばれ親しまれている。観音霊場の札所で、いつも境内には巡礼の姿がみられる。鎮宅霊符神堂
境内の北端に「鐘楼」1804(文化元)年、造営。本堂と鐘楼は市の有形文化財に指定されている1004(寛永元)年、革堂行願寺は行円上人によって創建された。
一条北辺堂(いちじょうほくへんどう)を復興して、寺名を「行願寺(ぎょうがんじ)」とし、一切の人々の成仏を「願い、行(ぎょう)じる」思いが込められている。行円上人の石碑
愛染堂通称革堂の名の起こりは、上人が常に革の衣をまとい、人々から皮聖とも呼ばれていたことから、革堂と呼ばれるようになったといわれている。
寺伝によると、開山の行円上人は出家前、もと猟師であったと言われ、山中で射止めた雌シカの腹から子ジカが生まれたのを見て、殺生を悔い仏門に入ったという。行円は戒めにこの雌鹿の革を身に着けて諸国の霊山を修業・供養、寒さ暑さを問わず、常にシカ革の衣を着ていたことから、人々が革聖(かわのひじり)とか皮上人と呼ぶようになった。殺された鹿に無常を感じて肌身離さなかったという説もある。
以後、人々からの厚い信仰を受け、町堂として大いに栄えたが、度々の火災により、寺地を転々とし、1708(宝永5)年の大火ののち、この地に移った。五輪塔の水輪がくり抜かれており、その穴の中に「加茂大明神」が祀られている
室町時代の作とされる「加茂大明神五輪石塔」本堂は1815(文化12)年に建立したもので、本尊は行円上人が造ったといわれる千手観音菩薩を安置している。
境内には「都七福神」の一つになっている寿老人神堂をはじめ、愛染堂、鎮宅霊符神堂、加茂明神塔(五輪石塔)がある。
また、宝物館には子供を背負った若い女性が浮かび出る幽霊絵馬の伝説がある。正面には革堂観音と書かれた「大提灯」があり印象的である
江戸時代、寺の近くの質屋に奉公していた子守りの女お文(ふみ)が、革堂の御詠歌を子守唄代わりに唱えていたところ、法華信者の主人に咎められ、お文は折檻し殺されてしまった。主人はお文の遺体を土蔵に隠し、知らぬふりをしていた。お文の両親が行願寺で通夜を営んでいたところ、彼女の幽霊が現れ、事の次第を語ったので、真相が発覚、遺体は無事発見され質屋の主人は捕らえられたというものである。
手鏡はお文が奉公に出るとき母親から貰った大切なもので、両親はお礼に絵馬を描き、お文愛用の手鏡を添えて奉納したと伝えられている。
絵馬には子を背負った若い娘の姿が浮かび、その左側には手鏡がはめこんであるという。
 「花を見て いまは望みも 革堂の 庭の千草も 盛りなるらん」 (御詠歌)
毎年、8月の3日間、本堂にて行われる幽霊絵馬供養のときに見ることが出来る。
<行願寺(革堂)>
・住所:京都市中京区寺町竹屋町上る行願寺門前町17 TEL075-211-2770
・拝観自由・無料 ・車椅子拝観介添同伴可 
・拝観時間:8:00~16:30
・交通:市バス 河原町丸太町バス停徒歩3分
    市営地下鉄丸太町駅下車徒歩7分
    京阪鴨東線神宮丸太町駅下車徒歩6分