2012年8月31日金曜日

故郷紀行 ふる里の蓮

つづく・・・10日早朝、ハスがキレイに咲いているとの情報を得たので一人で徒歩で出掛けてみた。昨今、減反で田んぼが使われなくなり留が森区域の農家がハスの花を植えたという。
綺麗に咲いたハス、ミツバチが花の周辺に群がっている減反で田んぼが使われなくなり留が森区域の農家がハスの花を植えた夏の時期、避暑地も兼ねて実家に帰省しているのだがハスはまったく始めてである。5:30ごろ、家人にハスの花を観賞してくると告げ、時間が早いので朝食も取らず起きて直ぐ徒歩で向かった。
二枚の田んぼのハスは、上の田んぼより下が見ごろで淡いピンクの花が印象的だった大曼荼羅の美しいハスのようだハスは実家から距離にしてそう遠くもなく、自分の足で20分位は掛かったが朝の空気は都会では味わえない清々しさだった。やっと早朝のハスの花を見たが都会のような整備などなく、田んぼの土手は滑り易く、肢の悪い自分は要注意が必要だった。
朝露の蓮葉と淡いピンク色のハスの花白蓮は仏様のように感じた!二枚の田んぼのハスは、上の田んぼより下が見ごろで淡いピンクの花が印象的だった。
この蓮華、明日の早朝には開花するだろう。蜂巣も出てきハスの花はさかりはすんだようにも思えたが、中々見事で花は気高く凛として綺麗に咲いていた。 誰に観賞されることもないハス、ハス葉の朝露がキラキラと輝き、ハスの花は大空に向って咲いていた。
ハスの花は気高く凛として綺麗に咲いていたブ~~ンと羽音高く、蜂たちは食事に・・・淡いピンクのハスの花を愛でて上の田んぼに来ると真っ白い白蓮が咲いていた。真っ白いハスの花に蜂が飛んで来てミツを吸いに花にモグリ込んだ。
田んぼを一周し、ハスが咲いているのを眺め、至福の時を過した雑草の中に「トンボ」が羽を休めていた二枚の田んぼを一周し、ハスが咲いているのを眺め、至福の時を過した。(8月10日写真撮影)つづく・・・

2012年8月30日木曜日

故郷紀行 野村胡堂「銭形平次」の原作者

つづく・・・遠野・曲がり家をあと大迫の山村を見ながら車は進んだ。大迫町は寒暖の差が激しく町内産のブドウを用いてワインを生産している。友は走行しながら町のキャッチフレーズは「神楽とワインの里」だといった。
記念館の内部は胡堂の資料小高い丘の上に立つ野村胡堂・あらえびす記念館車は紫波町に入って「銭形平次」の原作者として知られる野村胡堂(本名長一)の記念館に寄りたいと厚かましく頼んだ! 小高い丘にたたずむ銀傘の記念館は紫波町にあり、野村胡堂・あらえびすの故郷である。 ぜひ行って見たいところの一つだった。
胡堂は最愛の妻・ハナと一度たりと喧嘩はしなかったという記念館では、人間野村長一、小説家野村胡堂、音楽評論家あらえびすの数々の作品や執筆資料を展示している。また胡堂作品やあらえびすが愛したレコード音楽を楽しむことができる。 野村胡堂は盛岡中学から東京帝大に進むが、父が亡くなり学費が払えず除籍処分となった。その2年後、新聞社に入社、政治部で活動した。 野村は新聞のコラムに初めて「胡堂」のペンネームを使用したという。またもう一つのペンネーム「あらえびす」は同新聞に音楽漫談「ユモレスク」を書くのに使っていた。彼の音楽収集は有名で、7000枚のレコードコレクションは現在も岩手県紫波町の「野村胡堂あらえびす記念館」に保管されている。
胡堂は音楽と何よりも書くことが好きだった連載だった最後の「オール読物」8月号1931年(昭和6)野村胡堂の原作で「銭形平次」の連載が始まった。 「文芸春秋オール読物」に載り、以後27年間、合計333編(特別編などを加えると400編近くある)もの大長期連載を果たしたという。 一人の人物を主人公にした小説としては世界最長説という。その他、数々の作品が生まれた。
何と言っても銭形平次役は大川橋蔵が適役!銭形平次のテレビ・映画はよくご覧になったと思うが、原作者は岩手県が生んだ「野村胡堂」。投げ銭で賊の動きを止める得意技が「銭形」の異名を生み、ガラッ八役の(林家珍平)やお静役(香山美子)、何と言っても銭形平次役は大川橋蔵が適役だったとおもう!
記念館は野村胡堂先生の胸像があった野村胡堂がこのシリーズの執筆を停止したのは眼病のためで、1957年(昭和32)「オール読物」8月号が最後だった。1963年2月死の直前、私財のソニー株約1億円を基金に財団法人「野村学芸財団」を設立した。 その2ヶ月後の4月14日、肺炎により死去、享年80歳だった。葬儀は音楽葬で営まれ同級生の金田一京介が葬儀委員長を務めた。友と私は町内のラ・フランス温泉館へと目指した。(8月9日写真撮影)つづく・・・
<野村胡堂・あら恵比寿記念館>
住   所:岩手県紫波郡紫波町彦部字暮坪193-1 電話:019-676-6897
開館時間:午前9:00~午後4:30(入館は午後4:00まで)
休  館  日:毎週月曜日(祝日は翌日)12月28日~1月4日
入館料金:大人300円
交   通:JR東北本線日詰駅から車で8分        
       JR東北新幹線新花巻駅から車で25分        
       紫波I.Cから車で15分

2012年8月29日水曜日

故郷紀行 千葉家の曲がり家・遠野市

つづく・・・遠野の道の駅で友と遅い昼食をとり、大迫町へ向けて出発した。曲がり家の千葉住宅は遠野から盛岡へ向かうR396の右手にあり僅か5,6分で到着した。
小城を思わせるような屋敷構えだった遠野市、千葉家の曲がり家(重要文化財)見晴らしの良い小高い丘の中腹に石垣を築き、曲がり家の最盛期に建てられ、小城を思わせるような屋敷構えだった。
正一位稲荷大明神、屋敷の中に社があった江戸時代から格式のある千葉家の曲がり家千葉家は現在も住宅として使用されていて、家は人が住むことによって命脈が保たれている。現在は敷地と建物の一部が公開されている。付属建物や石垣などを含め、屋敷構えがよく残されており、2007年に建物と宅地が国の重要文化財に指定された。
遠野物語にもなったL字型の建築様式2007年には国の重要文化財に指定されている
千葉家住宅は江戸時代の南部地方特有の母屋(住居)と馬屋を平面L字形に連結した農家建築『曲り家』を代表する建物として知られている。 石垣の上にそびえるこの曲がり家は総面積が163坪もあり、かっては作男の15人をふくめ25人の家族が住み、馬20頭も同じ屋根の下で生活していた。厚さ約1メートルのカヤぶき屋根の葺き替えには約20日間かかり、2トン積のトラックで60台分のカヤとフキ大工など600人を超す人が必要だった。
蔵も離れにあった中庭には大きな石があった!曲り家は、人の住む母屋(おもや)と馬のいる馬屋(うまや)が一体となったL字型の建築様式の住宅で、人馬が一つ屋根の下で暮らしていた。 大きく分けて馬屋・土間・住居の3つの空間からなり、南向きに建てられた母屋(住居)の西部分から南へL字形に飛び出した部分が土間と馬屋である。
R396から観た千葉家の曲がり家千葉家住宅五棟の説明一般的に曲がり家は、馬屋の部分が日当たりのよい南側に面していることが多く、馬の特産地でありながらも寒い東北地方において、人々が馬を大切に育てていたことを窺い知ることが出来る。千葉家住宅はゆっくりと時間を掛けて来たいところである。(8月9日写真撮影)野村胡堂につづく・・・
<千葉家住宅>
住   所:岩手県遠野市綾織町上綾織1-14 電話:0198-62-9529
営業時間:8:30~17:00(11月~3月9:00~16:00)年中無休
入場料金:一般350円 高校生250円 小・中学生100円
交   通:JR遠野駅から早池峰バス綾織・達曽部線『千葉家』下車       
       盛岡市、花巻市から国道396号で遠野市街への入口付近
無料駐車:30台あり

2012年8月28日火曜日

故郷紀行 三陸沿岸をドライブして

つづく・・・みちのく花巻に帰省したら交流しているクラスメートの友人、そう云う彼も東京からUターンの一人である。8月9日、彼の運転で陸前高田市からルート45に入り大船渡・釜石市を廻り遠野市から大迫町、紫波町、総370㌔を走破し感謝感激である。
岩手にへ帰省したらこの目で大震災の被災地を見ておきたかったが友の配慮で実現した。2011年3月11日のあの大震災は、直接的に被害にあった人はもちろんだが、全世界に大きな衝撃を与えた。テレビの前で映し出された‘津波の猛威’に唖然とし身震いを感じた。自然の恐ろしさを心の底から実感した。
家屋は津波で流され敷地の土台だけが今は残っている! ガレキの残骸の山を一つ、またひとつ小さなトラックで取り除くには途方も無く時間がいるだろう!
大津波に耐えた「奇跡の一本松」も願いも虚しく枯死状態になり最後の自立する姿を見ようと、多くの人々が連日訪れている。一方で戸羽市長は海抜0mの陸前高田市「高田松原」を公園化に立案、国に申請しているという。一本松は来月12日切り倒され、震災2年を迎える来年3月11日までに元の場所に立て直す計画だという。 大震災の地盤沈下でサッカー場の照明設備が今は海中と化しているとボランティアの方が教えてくれた。
ガレキの山積みを見ながら車を移動したら白いビニールハウスの様なものが見えた。岩手のテレビ報道で知ったが人々がレタス栽培をしているという。岩手県の三陸海岸沿いを走る風光明媚な三陸鉄道南リアス線は、大震災の被害により全線運休となっておるが開通が望まれる。今、盛駅からバス路線検討中・・・。
三陸町や吉浜湾を経て鉄の街・釜石へ、忘れていないだろうか「釜石の奇跡」のことを?・・・津波で壊滅的な被害を受けたが、市内の小中学生約3000人はほぼ全員が避難し無事だった。巨大な防波堤を砕いた大震災の津波から、児童・生徒ほぼ全員が逃れた釜石市だった。市では、震災以前から群馬大学の片田敏孝教授らによって、防災教育が徹底されていた。
震災当日も、教授が提唱した「想定にとらわれるな」「最善を尽くせ」「率先避難者たれ」という「避難の3原則」を、子どもたちが忠実に守った結果、この奇跡が起こったと言われている。
ギネスに登録された世界一の大堤防があり、加えて、釜石の学校は安全な場所だと予測され、津波警報の避難地域に指定されてなかった。しかし、児童はそういった「想定」などお構いなしに、大人からの指示を待つことなく自発的に避難し、難を逃れた。
同市鵜住居町の根浜海岸では、大震災の被災者が震災犠牲者供養のために描いた仏画を海に流す催しを行った。被災者らは仏画を海に投げ入れ、海に向かい祈りを込め静かに手を合わせた。
ガレキが山積みしたままの状態の中、今の永田町は党利党略ばかりで国民はないがしろ、福島原発事故や大震災など復興の文字が空回りしている有様である。(8月9日写真撮影)つづく・・・

2012年8月27日月曜日

故郷紀行 ジャガイモ堀り

小山田保育園を出発する園児たちのはしゃいだ顔!ご近所の農家の畑の先生に「よろしくお願いします」とごあいさつを交わしたつづく・・・我が家から徒歩5分のところに小山田保育園がある。
園児たちはジャガイモ堀にやってきたジャガイモの収穫農家の敷地を借りで8日、保育園の子どもたちが芋掘り体験をした。
両手に持ちきれん程のジャガイモ女児はジャガイモ堀にピースサイン!園児たちは大きなじゃがいもの収穫に目を輝かし喜んだ。
連なったジャガイモおっとっと、なんだいこれは・・・保育園の園児は荷車やバケツを持ち、職員等は一輪車を押して裏のジャガイモ畑に行き畑の4人の先生にあいさつを交わした。
一輪車に集められたジャガイモを見るピンクの帽子は1歳か2歳?職員はジャガイモの畝をスコップで掘り、園児たちは小さなショベルを持ち土の中からジャガイモを掘り起こした。
さぁ~記念写真をハイチーズ園児たちは畑の中が好きで楽しく遊んでいた小さな手に一杯のジャガイモを抱え得意気にポーズを取った。
ゴザを敷き、取ったジャガイモを干す一番美味しそうなジャガイモを貰って高く上げる畑で記念撮影し園児たちは一気揚々としてたくさんのジャガイモを収穫し園に帰った。この子たちがいる限り、東和町も安泰である。(8月8日写真撮影)つづく・・・