2011年3月31日木曜日

PC講演会

近畿に春の訪れを告げる「比良八講」荒終があるがその通りで二月中旬の寒さであった。 3月26日RAKU-PCクラブ例会は午後1時30分から4時まで、時折激しく雪が舞う突風の中、南区洛南身体障害者福祉会館で26名の参加で行なわれた。始めに司会役の方から3月11日東北関東大震災で亡くなった方々に一分間の「黙祷」の哀悼の意を捧げた。同時に救援金カンパ箱も用意され、被災者に暖かい救いの手を差し伸べることも行っていた。天気が悪かったが講演会は盛会した生い立ちから講演は始まった
今回は洛南身体障害福祉会館職員だった“T・T先生”をお迎えして第1部は「洛南の障害者とともに~僕の人生~」の半生を講演だが、当初から先生も名誉会員の一員である。第2部は、インターネット「HP開設、ブログ、ツイッター等」の新しいサービスについてお話をいただいた。京都育ちのT先生は、生後3ヶ月体重の増加が思わしくなく病院で治療診断の結果水頭症になった。その後、京都市立呉竹養護学校に入学、1972年にはNHK教育放送でフォートラン入門。1973年高校進学するが当時、養護施設に高校がなく一般の高校に入学した。1980(昭和55)年、大学も卒業したが就職もできずバイトなどに明け暮れたが、バイト先でNEC8800(パソコン前身)にであった。 クラブはパソコンを主としている耳を傾け熱心に講演を聴いていた
1984(昭和59)年、先生は身体障害福祉会館の社会福祉法人化に伴う職員採用試験を受け採用となり、また大阪ガスからNEC文豪8Nの寄付を受け、ワープロ教室も開講の運びとなった。府肢体障害者協会公文書作成やマルチプラン(エクセルの前身)で給与計算を仕事と勤めた。 1990年、洛南授産所でインクジェット式プリンターを使用し年賀状印刷の開始や管理ソフトの作成に取り組み同僚のEさんとMS¥DOSの勉強を重ねた。 1992~3年、伏見、山科福祉センター開所、1995年には、MS-WINDOWS95が発売された。2002年にはホームページを立ち上げ、ITボランティアを発足したのである。 2005年には就労IT教室も開始している。福祉会館2階にあるパソコン室だが、名残かワープロ室なっている!
懐かしい人も多い講演会しかし2008(平成20)年、京都市立病院で神経頚椎から来る症状と診断、足や左上腕の感覚・更に言語障害も進み、圧迫している頚椎に隙間を与え病状は完治するものではないが、これ以上悪化させないよう現状維持を保持する為、府立医科大学病院で手術、3ヶ月の入院闘病生活を始める事になった。自らも障害を抱えながらもT先生は職員として33有年の長き歳月にピリオドを打った。だが現在パソコン講師として週三回講座を受け持ち、好きな電気店めぐりの一方、余暇には電動車イスに乗り京都中の障害者の元に馳せ参じパソコンの面白さとトラブルの解決のため日夜惜しまずエネルギッシュに活動している。 数多くの障害者にパソコンを教えてこられた自らも障害を抱えながらパソコンの面白さを広く世に奨めている
講演第2部は、ソーシャルネットワーキングサービス(SNS)を取り上げた。世界最大のSNS「Facebook」「MySpace」があり日本でも「mixi」が有名である。SNSは人と人とのつながりを促進・サポートするWebサイトである。T先生は長年に渡って数多くの障害者にパソコンを教えてこられたが、先生の駄洒落はともかく、楽しく丁寧な講座を受講、その誠実な人柄を慕うようになられた方々は多い。質疑も活発で洛南の障害者とパソコンとの強い結びつきをあらためて確認して散会した。なお、このクラブは2004年3月から洛南身体障害福祉会館のパソコン教室の受講者有志で立ち上げたもので、パソコンを通じて、相互の親睦交流と情報提供・交換および健康の維持向上を目的としている。RAKU-PCクラブでは今後もいろいろな角度からパソコンについて学習したいと思っておる。
※ RAKU-PCクラブのお問合せ    
  e-mail : gottuan@violin.ocn.ne.jp

2011年3月14日月曜日

東日本大地震

東日本大震災で被災された方々に、心からお見舞いを申し上げます。
2011年3月11日午後2時46分ごろ、三陸沖を震源とする国内観測史上最大のマグニチュード9.0の大地震が発生し、太平洋沿岸の北海道、東北・関東各地方にも大津波、火災などにより広範囲において甚大な被害が及んだ。
その11日は病院診察をおえて遅めの昼食とり、パソコンに向かっていたがぼくは強いめまいを感じた!
船酔いみたいに左右に揺れだし、自分の身体の具合が悪くなったと思うほどだった。窓の景色を眺めたりして休んで、その時、何気なく部屋の照明・蛍光灯のスイッチが揺ら揺ら揺れて、始めて地震と気が付いた。
直ぐ、テレビの電源を入れ震源地はとこだろうと探したら三陸沖、故郷岩手県や宮城県・福島県が報道されている!
地震が発生して津波が来る前で、まもなく恐ろしい大津波が来た!!!
テレビの映像を見るだけでただ呆然として食い入るようにみていた。
大津波の迫力の凄さましさ、民家をも流し車はおもちゃのようにスクラップにされ、船舶は海上から街中を木の葉のように波に飲み込まれていった。
津波は堤防を越え10mの高さで次々と民家や車を飲み込んだ。
人々は高台に避難し激しく泣く子を母親が抱き、だた呆然と津波の恐ろしさを傍観していた。高台に上ろうにも出来ず無残にも多数の方々が命を絶たれた。
また12日午後と14日午前、福島第1第3原発で建屋の壁が崩壊する爆発があり、住民は家を棄て半径20km離れたところに避難している。あのチェルノブイリ原発事故は1986(昭和61)年にあり原発の放射能の恐ろしさが問われる。
今日で4日目、東日本大震災で発生した地震と津波における、各地の被害状況は安否不明が数万人で死亡者は数万人に上るだろうとなった。
故郷花巻市は内陸にあり津波の被害はなかったがライフラインが気に掛かる。一方、釜石・宮古では大津波で水没するなど破壊的な津波の被害を受けていて連絡の取れない親類の安否が心配!また宮城県太白区と岩沼市には同級生が住居している。まだ電話の連絡もつかない!
ただただ無事を祈るだけで言葉もない。余震はなお続いている。
なお多数の方がメールや電話でお見舞いのお言葉をいただき、この場を借りでお礼申し上げます。

2011年3月7日月曜日

人間国宝 羽田登喜男作品展

生誕100年を迎える加賀・京友禅の染色家、人間国宝の故羽田登喜男作品展が開館2周年記念して上京区の中信美術館で開催されている。開館2周年記念して「人間国宝」故・羽田登喜男作品展が展示している 中信美術館は京都府庁正門西約100mにある
中信美術館には地下鉄南北線、丸太町駅下車、徒歩で10分京都府庁を目印に行くのが良く、市バスなら堀川下立売下車2分で北側にある。石川県金沢市の生まれで加賀と京友禅を学んだ
瑞色含春(ずいしょくはるをふくむ)と鴛鴦(おしどり)1911(明治44)年、羽田登喜男さんは石川県金沢市の造園師の家に生まれた。
1925(大正14)年金沢市にて「南野耕月」師に入門し加賀友禅を学んだ。その後、1931(昭和6)年京都にて“曲子光峰”師に入門をして京友禅を学び、加賀友禅と京友禅の技法を習得した。文様の構想練る
糊おき1937(昭和12)年、京友禅の修業を経て独立、加賀友禅と京友禅の二つの伝統美を融合させた独自の境地を開拓し工房を構えた。羽田さんは竜安寺好きでいった
何十冊もあり、いつも初心忘るべからず羽田さんは、写実的な絵模様の加賀友禅と華麗でみやびな意匠の京友禅を融合させ、花鳥風月を題材に手描き友禅に独自の境地を開いた。特に鴛鴦(おしどり)の文様は独特のデザインで人気が高い。竜安寺の石庭1985年「薄明」
京都の庭園や自然を愛した羽田さん、野の草花を眺めながら、その豪華な文様のデザインが特徴的である。
京都・二条城を訪れたダイアナ妃、羽田さんが3ヶ月かけて制作した1986(昭和61)年5月に初来日した英国王室ダイアナ皇太子妃に京都府・市より贈られた手描友禅本振袖を制作した。
1988(昭和63)年に「人間国宝」と呼ばれる重要無形文化財「友禅」保持者に認定された。1982年から三年間蟷螂山の懸装品を無償で制作した
1958年訪問着「匂ふ」また祇園祭の山鉾(やまほこ)の一つで、四条西洞院に“カマキリ山”がある。この蟷螂(とうろう)山の懸装品も無償で制作した。国内外の展覧会で活躍した後、2007(平成19)年、高齢になり制作活動を引退し後進に道を譲ったが2008(平成20)年2月10日肺血症でこの世を去った。(享年97歳)
日本伝統工芸展審査委員や日本工芸会理事など中信美術館を運営する中信美術奨励基金(下京区)の評議員を約20年間務めたことから、同基金が回顧展を企画したのである。
着物以外にも祇園祭の懸装品などみれる会場には、花鳥風月を題材にした訪問着のほか、羽田芸術の真骨頂ともいえる祇園祭・蟷螂山の懸装品など16点を展示していて、きもの以外の作品をみられる珍しい機会と無料とが重なりうれしい!
加賀友禅と京友禅を融合した、友禅師、人間国宝・羽田登喜男の華麗な美の世界に来訪者は見入っていた。

<中信美術館>
場   所:京都市上京区下立売油小路東入西大路町136-3
日   時:2月18日(金)~3月20日(日)
開館時間:午前10:00~午後17:00
入場無料:注・入場券は京都中央信用金庫本支店窓口にある。
       郵送をご希望の方は広報部まで。
休 館 日 :月曜日
交   通:地下鉄 丸太田町下車徒歩10分
       市バス 堀川下立売下車2分

2011年3月6日日曜日

西陣の町屋で雛祭り

西陣にある「町屋写真館」で開催されている、京の名所写真とともに春を感じるひな祭りは2月27日から3月6日までの8日間である。写真展もともに開催
春を愛でるひな人形の数々写真家・水野さんは、京の春を愛でる企画展「町屋で雛祭り」を行った。 本館と分室に分れ、江戸時代から昭和までのひな人形と道具類150点余を飾り、京の四季の写真展をともに展示している。
代々家に伝わる「古今びな」や大正時代に流行した「御殿びな」、知人や旧家の人から譲りうけ、集まった江戸時代に作られた「享保びな」「立ちびな」など100体余りを展示していて、人形を一般の人にも楽しんでもうおうと開催したという。向かいの分室
西陣の町屋写真館3段のひな檀に並んだひな人形は迫力満点で訪れた人たちは満足化だった。
また写真家・水野さんが撮影した京の四季の写真も併せて公開している。
<西陣の町屋で雛祭り>
住所:京都市上京区大宮通元誓願寺下る 電話:075-431-5500
会場:水野克比古フォトスペース 町家写真館
日時:2011/2/27(日)~3/6(日) 11:00~17:00
交通:市バス多数あり
料金:入場無料 ※期間中は予約不要

2011年3月5日土曜日

市比賣神社(いちひめじんじゃ)

通称“いちひめさん”は、女人厄除け、市場守護で有名な下京区河原町五条の交差点から南西に位置するところにある小さな神社である。3月3日は雛人形を飾っている女性の守り神として5人の祭神が祀られている
女性の守り神として知られる市比賣神社は、祭神が全て女神をお祀りしていることから、厄年を迎えた女性の厄払い、良縁・子授け安産の祈願に来られる方のカップルが多く、全国でも大変珍しいとされている。植松稲荷大明神
最新式の形態をとる神社だが歴史古い!795 (延暦14) 年、桓武天皇の時代に創建し、京都の左右両市場の守護神として、左大臣の藤原冬嗣公が堀川の西、七条の北(現在の西本願寺)にあったが、豊臣秀吉の時代に現在地に絵馬をかけ願い事を一つだけ言うと叶う移転した。姫みくじは、持って帰るもよし、願い事を入れて預ける事もよい
平安時代、神社の境内は平安京唯一の官営市場であり、全国から産物が集められ貴族から庶民多くの人々が商いの祖神とされ賑わってきた。
1927(昭和2) 年、日本で初めて京都に「中央卸売市場」が開設されたとき、ほぼ中央の構内に市比賣神社の守り神・分社「市姫神社」が祀られている。天児人形や桃かざし、貝合せ江戸時代の双六や立雛があった本殿は神社建築としては大変珍しく、皇室守護のために御所の方向に向いて北向きに建てられているという。境内には「天之真名井(あめのまない)」と称される歴代天皇の産湯に用いられたという井戸がある。京の七名水の一つに数えられ、現在も名水として茶会、花展・書展等に用いられる。また、絵馬を掛け、「天之真名井」のご神水を飲んで手を合わせると、心よりの願い事が一つだけ叶うと伝えられる。
和服の方は姫みくじを一つとられた桃かんざしのお守り
3月3日のひいな祭は神事は神社で行われ、行事は、すべて近くの「ひと・まち交流館」で行われる。13時からは内裏雛などに扮する「ひと雛」や、五人囃子の雅楽に合せ、三人官女が桃の花をかざし、舞などが披露される。十二単や束帯の着付け実演、投扇興や双六・貝合せなどの王朝遊び、ひな茶の接待なども有料で行われる。雛祭りといえば和菓子「ひと・まち交流館」は河原町通を渡った所
マンションの1階部分で神社とは気づきにくく、町並みに溶け込んでおった!このように神事は神社で、催しは交流館で行う最新式の形態をとる市比賣神社だがその歴史は古い。
<市比賣神社>
住   所:京都市下京区河原町五条下る一筋目西入る 電話:075-361-2775
拝観時間:9:00~16:30
拝観料金:境内無料 
       但し・ひいな祭の参観券(お守り・ひな茶付き)1,000円
       ひいな祭会場…ひと・まち交流館
交  通:京阪電車「清水五条駅」下車、徒歩5分 
      市バス「河原町正面」下車、徒歩2分 
駐 車 場:なし 

2011年3月4日金曜日

流しびな 下鴨神社

3月3日、桃の節句に左京区の下鴨神社で「京の流しびな」の神事が営まれた。桃の節句、下鴨神社恒例の「京の流しびな」は京人形商工業協同組合の主催で毎年開いている
春の訪れとともに、桟俵(さんだわら)の流しびなは、すこやかに、愛らしくと、川面に子どもの成長を願い御手洗川に流すと心が清められ、すべての厄はのがれられると言い伝えられてきた。束帯姿と十二単姿の二人が流しびなを流す
時折ちらつく小雪の中で行う三月と思えない小雪のちらつく中、参拝者たちは御手洗川に和紙のひな人形を流し、女の子の無事な成長を祈った。恒例の「京の流しびな」の行事で、桟俵は赤衣に金の袴烏帽子、簡素な白梅模様のかれんな美しい夫婦雛で京人形商工業協同組合の主催で毎年開いている。橋殿に飾ってある七段飾りの雛人形川や海に流すことによって厄払いをする
雛人形は、源氏物語にも出てくるほど歴史ありこの行事は、宮中のひいな遊びへと発展した。流しびなは、日本古来の伝統行事で災厄を祓うために人形(ひとがた)を身代にして川や海に流すことによって厄払いをする習慣が生まれている。
今では、女の子が生まれたら無事大きく育つことを願い、雛祭りへと変わりつつ、現在でも流し雛の風習は各地に残っている。近くの園児の代表園児は元気よく雛祭りを唄った
流しびなは、和紙で着物を作り、顔は土を丸め胡粉を塗った素朴な人形に願いを込め川や海へ流したという。川面は色鮮やかな人形で美しく彩られていた京都タワーからたわわちゃん
縄文時代の土偶や古墳時代の埴輪にまでさかのぼることができ、人形の起源は古く、平安時代の「ひとがた(人形)」「かたしろ(形式)」なども疫病を払うため、あるいは災厄の身代わりを願って、ひとがたに穢れを移し、川に流して厄を払う「流し雛」だという。平安貴族の姫君の遊びとし、また信仰の対象物となったという。ご結婚おめでとうと祝福の声を掛けていた
お二人は抽選で選ばれる御手洗川前には、今年6月結婚予定の男性と女性が平安貴族の公家(くげ)の正装、束帯(そくたい)姿と十二単(ひとえ)正式名は“五衣唐衣裳”(いつつぎぬ、からぎぬ、も)の衣装で行事に参加していた。三人は流しびなのあと、手を合わす
宮川町の舞妓さん宝鏡寺の尼住職、宮川町からは三人の舞妓さんや京都タワーのマスコット・たわわちゃんが愛嬌たっぷりに桟俵を乗せた流し雛を御手洗川に流した。続いて、近くの園児らが「あかりをつけましょ~ぼんぼりに・・・」元気いっぱいに合唱した。宝鏡寺の尼住職
御手洗川の川面をゆっくりと流れる大勢の参拝客が次々と小さな桟俵の乗せた「雛人形」を川面に浮かべるとゆっくりと流れていった。川面は色鮮やかな人形で美しく彩られていて、写真愛好家はバシャとシャッターを切っていた。橋殿に飾ってある七段飾りの雛人形を記念撮影した。橋殿前の床机
写真愛好家はバシャとシャッターを切っていた長い歴史と文化が年月を経ても「桃の節句」“京の流しびな”は春の風物詩になっている。