2013年2月4日月曜日

北野天満宮 節分祭 「追儺狂言(ついなきょうげん)」

紙屋川沿いのだるま寺(法輪寺)へ参拝し、1時からの北野天満宮の節分祭の楼門に着いた。天神さんの「追儺狂言」もさることながら上七軒のキレイ処、芸舞妓さん観たさに10時ごろから神楽殿前にきたがすでに10人余のカメラマンの方が良い位置で待っていた。
楼門には災難厄除けのお札・お守り及び銀幣が特別授与される。午後1時からは、神楽殿にて茂山千五郎社中による「北野追儺狂言」。写真撮影は正面よりやや右側が良く、上七軒歌舞会のカメラマンは言っていたが自分は二年ぶりで来たが神楽殿の柱が邪魔になった。左端の方は大阪堺から来たといい、右側は上七軒歌舞会のセミプロの方、お連れがたくさんいて、芸舞妓さんのA4アルバムの写真を見せたり、会話が弾んで時間が早く過ぎた。たくさんの参詣者が神楽殿前を囲んだ!!
「季節を分ける」、移り変わる節目を指し、一年に立春・立夏・立秋・立冬と4回あった。節分は「季節を分ける」、移り変わる節目を指し、一年に立春・立夏・立秋・立冬と4回あった。ところが日本では立春は一年のはじまりとして、とくに尊ばれたため、次第に節分といえば春のみを指すようになっていった。
鬼が現れた!京都では表鬼門の吉田神社、裏鬼門の壬生寺が有名。この時期、京都では表鬼門の吉田神社、裏鬼門の壬生寺が有名で、無病息災・招福繁栄を願い大勢の参詣者でごったがえし、町衆の文化が深く根付いたもので節分の豆まきには、厄を払うという意味がある。
悪鬼は深泥池に棲み、福の神にさとされていく。平安時代に起源のある「追儺(ついな)」という行事から生まれものである。節分には豆まきの習慣があり、さほど気にもしていないが由来とはなんだろうか?豆まきは中国の習俗が伝わったものとされ、平安時代に起源のある「追儺(ついな)」という行事から生まれもので、宮中で鬼払いの儀式を行われていた年中行事だという。
鬼を退散させ、豆(魔目まめ)を投げつけて魔を滅っする(魔滅=まめ)という。豆は「魔滅(まめ)」に通じ、無病息災を祈り鬼を退散させ、豆(魔目まめ)を投げつけて魔を滅っする(魔滅=まめ)という。子どもの頃、炒った豆を一家の主人や、またその年の干支生まれの「年男」がまくもので、家族は自分の数え年の数だけ豆を食べると病気にならず健康でいられると言われていた。
鬼は外、福は内と豆を投げつけた。午後1時からは、神楽殿にて茂山千五郎社中による福の神が鬼を払う「北野追儺狂言」が行われた。昔、悪鬼は深泥池に棲み魔所とされ常に不浄を避け、手厚くお祀りをせねばならない大切な場所とされていた。
この日、狂言とともに行われる「追儺」“鬼やらい”の儀式は、一年の病気災厄を祓った年中行事であり、災難厄除けのお札・お守り及び銀幣が北野天満宮で特別授与されている。上七軒歌舞会による舞踊奉納もされ「豆まき」が行われたつづきとする。

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