2010年3月31日水曜日

京都府庁旧本館 春の一般公開

歴代の67年間にわたり24人の知事が使用した
府庁は春の一般公開京都府庁は、上京区丸太町釜座通り府庁前のバス停を北へ約徒歩5分のところである。桜の開花に合わせて歴史建造物とともに一般公開をしている。窓から大文字山や比叡山を望む抜群のロケーション
設計者の松室重光氏は東京帝国大学で西洋建築を学んだ日本最古のものと言われる旧本館は、1904年(明治37)12月20日竣工したレンガ造の建物で107年経っている。
1971年(昭和46)まで府庁の本館として使用、現在も執務室や会議室として使っており、現役の官公庁建物としてはもっとも古い。この建物の設計者の松室重光氏は東京帝国大学で西洋建築を学んだ京都府の技師だった。階段から観た桜
正庁は和風建築で格調が高い外観はルネサンス様式に属する建物で、正面の一段高くなった屋根を中心に左右両翼に対称に張り出した形になり、西洋近世の大邸館をほうふつとさせるものがある。建物内部には和風の優れた技術が巧みに取り入れており、内部意匠は建築よりも、むしろ工芸品といった趣さえ感じられる。意匠の松室と言われるほど広く深い知識や理解が深く、ルネサンスを基調とする完成度は高くバランスは見事だ。他にも京都ハリストス正教会(市指定文化財)や京都武徳殿(重文)があるが、その後中国に渡り作品が少なく残念である。
旧知事室は2階の南東角に位置し、東側の窓から大文字山や比叡山・京都御苑を望む抜群のロケーション。旧知事室にある鏡付の暖炉
ギリシャ建築「アカンサス」をモチーフした美術工芸的価値の高い1905年(明治38)~1971年(昭和46)、67年間にわたり24人の知事が使用したという。
旧知事室や旧食堂、旧応接間、急貴賓室には4つの暖炉がある。

          特に旧知事室の大理石にタイルを組み合わせたもので、上部に大きな鏡が付いているが光を取り入れたものという。また、一層手の込んだ格天井(ごうてんじょう)などがある。また、木製の足付飾棚は府庁の建築と一緒に計画された家具は多くの彫刻を施し明治期の典型的な高級様式家具、ギリシャ建築「アカンサス」をモチーフした美術工芸的価値の高い家具である。
「村井吉兵衛」氏は明治37年、約1億円の寄付だったという。また、旧知事室には明治天皇がきた時の菊の御紋がある。旧食堂、調理場が無くほとんど弁当ですまされた
菊の御紋章が印象的旧本館のシンボル、正庁は和風建築で格調が高い格天井で仕上げられている。
大正天皇(大正4年11月)、昭和天皇の即位の礼(昭和3年11月)には、府庁内で内務省の閣議がされたと言う。また人類初の宇宙飛行士、ガガリーンは1962年(昭和37)京都に来日、バルコニーから府民の歓迎に応えたという。 この地に京都町奉行があった
ビャクシンは中国、朝鮮半島、日本西部に分布するビャクシン(柏愼」は、樹齢300年という。京都にも慶應義塾跡碑があった。
この地は京都守護職上屋敷があったという。幕末、警備のための役所があり強い権限が京都町奉行に与えられていたという。創建時の姿をとどめる旧本館は、2004年(平成16)国の重要文化財に指定された。
つづき・・・

2010年3月29日月曜日

地蔵院=通称 椿寺

書院の前庭には加藤清正が秀吉に贈った五色八重散椿
昆陽山地蔵院三門地蔵院は通称、椿寺の名で知られ、豊臣秀吉が椿を寄進したことで知られる。
北野白梅町交差点から南へ一条通の角にある。花びらが一枚ずつ散るのが特徴だという
桃色の椿の花正しくは昆陽山(こんようざん)地蔵院という浄土宗の寺院で、「椿寺」の愛称で親しまれ、春、五色八重散椿の咲くころ、大勢の参観者が訪れる。薄桃色の椿
樹齢約120年の二世が花を咲かせている地蔵院は726年(神亀3)に、行基(ぎょうき)が摂津国の建立したのが始まりと伝えられる。その後、平安時代に衣笠山麓に移され、室町時代におきた戦災で焼失したが、3代将軍足利義満が金閣寺建立の余財で再建した。1589年(天正17)に豊臣秀吉の命により現在地、一条紙屋川に移された。薄桃色や白に咲き分ける五色の八重椿
真紅の椿1671年(寛文11)善曳和尚の時、浄土宗となり、知恩院の末寺と改め、本尊を阿弥陀如来・俗にお多福阿弥陀と言われて、高さ3尺木造座像で善導大師の作と言われている。
地蔵堂に安置する地蔵菩薩はもとの本尊で、高さ6尺、乾漆の立像で行基の作のものと伝えられる。安産守護の地蔵として霊験あらたかで、俗に鍬形地蔵、木納屋の地蔵とも言う。
南側の二枚の板扉はもと北野天満宮にあった多宝塔の扉で、内面には、閻魔大王と火天の、極彩色の絵が描かれているが非公開という。安産地蔵さんでよだれかが奉納されている
十一面観音菩薩で高さ5尺3寸木製立像観音堂には、十一面観音菩薩で高さ5尺3寸木製立像、慈覚大師の作で正月三が日と春秋彼岸、地蔵盆にはご開帳だという。
本堂の前には、加藤清正が朝鮮から持ち帰り、秀吉に献上したもので秀吉が北野大茶会の縁から地蔵院に献木されたものである。
「五色八重散椿」は、薄桃色や白に咲き分ける五色の八重椿で、花ごと落ちず、花びらが一枚ずつ散るのが特徴だという。樹齢400年の一世は1983年(昭和58)春、惜しくも枯れ現在は樹齢約120年の二世が花を咲かせている。椿の花と参観者たち
天野屋利兵衛の墓また、境内墓地には赤穂浪士の打ち入りを陰で支えたとされる天野屋利兵衛の墓がある。利兵衛は、晩年地蔵院に隠棲し、名を改め、義士の冥福を祈ったと伝えられる。さらに、俳人与謝蕪村の師に当たる夜半亭巴人(やはんていはじん)の墓や切支丹の墓もある。
訪れたときは、散椿が盛んに散っていて綺麗だった。
<地蔵院>
住所:京都市北区大将軍川端町2 電話:075-461-1263
拝観:参拝自由、9:00~16:00
交通:市バス 50番205番「北野白梅町」下車、徒歩2分。
障害者:可
駐車場:なし

2010年3月28日日曜日

化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)

八千体の無縁仏を祀るという化野念仏寺は、右京区嵯峨野にある浄土宗の寺院で山号は華西山という。
愛宕街道から参道入口
賽の河原の外平安時代、化野は東山の鳥辺野(とりべの)の山や洛北の蓮台野と並ぶ風葬(死体を地中に埋めずに樹上や地上にさらし、風化させる葬法)の地であった所といわれる。賽の河原
本堂弘仁2年(811)、弘法大師が無縁仏を弔うために五智山如来寺を建て、野ざらしの遺骸を埋葬したのが始まりとされる。その後、法然上人の常念伝道場となり、現在華西山東漸院念仏寺になった。地蔵菩薩尊
仏舎利塔と鳥居(トラナ)正徳2年(1712)江戸時代、寂道上人により本堂は再建された。本尊は阿弥陀如来像。境内約八千体の石仏・石塔群は化野に葬られた人たちの墓で無縁仏である。毎年8月23・24日、地蔵盆には灯明をあげ、幽玄な千灯供養を行う。境内は水子地蔵もあり、地蔵菩薩の縁日には水子供養が行われている。六面六体の地蔵尊が祀ってある
竹林の小径愛宕街道は清滝に続く道で、季節柄あまり人通りも多くなく散策には好い。
嵯峨野のおく、化野念仏寺には殆んど人影もなく、ひっそりとした佇まいが好まれる・・・揺れるろうそくの炎に侘しげに立つ無縁の石仏が印象的だった。
八千体の無縁仏をまつる“西院(賽)の河原”にときを忘れ、しばし無常・・・
誰とても とまるべきかは あだし野の 草の葉ごとに すがる白露(西行)
仏舎利塔やトラナ(鳥居)もあり碑文がある。さらに境内の小径もあり、六面六体の地蔵尊が祀ってある。
一方通行だが車もなかった殆んど人影もなく、ひっそりとしていた嵯峨野、化野に侘び寂びを求めて来る各地からの観光や参拝客の期待感を裏切らないことを臨みたい。長い年月、雨風にさらされながら石仏や石塔群が静寂を物語っている。
<化野念仏寺>
住所:京都市右京区嵯峨鳥居本化野町17 電話番号:075-861-2221
拝観時間:9:00〜16:30
年末年始12月20日~1月14日10:00~15:30
拝観料:500円
交通:市バス・「嵯峨釈迦堂前」下車徒歩約20分
   京都バス 鳥居本下車 徒歩5分
   京福電車「京福嵐山駅」下車徒歩約30分
   JR「嵯峨嵐山」駅下車徒歩約30分

2010年3月25日木曜日

壇林寺門跡(だんりんじもんぜき)

壇林寺へは、ニ尊院・祇王寺の奥嵯峨鳥居本方面へ進むと道の左端に石柱がある。
宝蔵造り本堂の3層楼屋根
「山城国一ノ寺壇林寺」禅伝来本朝最初発祥遺跡と刻まれた石標が建っている門前の左に「山城国一ノ寺壇林寺」禅伝来本朝最初発祥遺跡と刻まれた石標が建っている。ニ尊院や祇王寺・滝口寺は訪れたが、2月梅宮大社参観の折、檀林寺を知った。三門軒下には、十六弁菊家紋や狛犬?三門軒下には、皇后が学校として設けた「蓮華精舎」の扁額。
檀林寺の名は「松森山 法寶閣 檀林寺門跡」で、平安時代の初め檀林皇后が建立した寺院である。檀林皇后(786~850)は嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(たちばなのかちこ)のことで創建時、中国の僧、義空和尚からこの寺で禅書を学び、これが、日本国で禅伝来最初の発祥といわれている。庭園にはいろんな形式の灯篭が建っている
頂峰の瑞鳥は御所を見ている皇后は、深く仏教を信仰し壮大な寺院を営み、盛時には十二坊を数えた。さらに皇后は、容姿端麗、婦人の徳に秀で、学芸を愛され学校として学館院を設けた。
(檀林寺門跡パンプレットより)
 『本堂は(法寶閣)重層 宝形造り 本瓦葺で法楼風を残した特殊な構造の典型でよく旧態を示している。法宝閣の名声は昔から極楽殿と親しまれてきた。
曼陀羅図の法宝閣を基本に屁も浄土観をただよわす構図は、まさに宝蔵造りそのものである。これは正面下層の中央部を截り一段上へ屋根を高く変化を見せ、裳階をつけた入母屋造りの特色をとどめた蓮子窓にみられる。その上三層楼屋根は勾欄を施し、軒は短く、頂峯の露盤にとまる瑞鳥は天空に向い経文を唱える勇姿は、輝かしく堂々たる造形である。正面軒下に法宝閣の大篇額(平安時代)を掲げ、偉容を誇るのは、以前の意匠を伝えるものである。各層軒の丸瓦紋と、正面の金彩に輝くものは共に十六弁菊家紋である。正面入口の石段は、九段止め九重の段として従法に基つく寺格を示し、その左右には蟇股の鳳凰の彫刻が一対嵌めこまれている。この極彩色浮彫彫刻は、豊麗豪放なもので、力強く(宗達筆彫)貴重なものである。正面一基の石燈籠は(櫓形)は桃山時代であり、右手の石造仏頭は奈良時代のものである』
 『本堂の内陣には、ご本尊として檀林皇后を型どったという容姿端麗な准胝仏母尊(藤原時代)をお祀りしている。大欄間の音響菩薩(天女)四尊はそれぞれ楽器を手に、極楽浄土へ舞上がる立体美の彫刻(桃山時代)である。倶利迦羅明王と火焰は、本質を象徴する格調高い絶妙な作品で、仏教美術史上まれにみる傑作として知られている。その他霊法館を含め彫刻・絵画・工芸品等が数多く宝蔵され、順に展示陳列されている。東寺郷の松森家が檀林皇后の御遺品および伝来の寺宝とともに浄財を献じて再建した』 壇林皇后の供養塔
モリアオガエルが棲息している瓢箪池
創建当時、檀林寺は大覚寺付近にあり、平安初期の仏教と文化の一中心地であったという。檀林寺はこの由緒によって昭和39年(1964)、再建された寺院である。
宝蔵造り本堂の3層楼屋根頂峰が瑞鳥なのは珍しく、この瑞鳥は東方、御所を見つめている。また境内には皇后の供養塔がある。なお、壇林皇后陵は愛宕(あたご)念仏寺の西方、約200mのところにあるという。昭和39年(1964)に再建された比較的新しい寺院
水子地蔵菩薩霊宝館には、皇后ゆかりの品をはじめ、日本、中国の仏教美術の数々が納められているが、 ただ残念なことは霊宝館は奥行きも狭く、仏像や書画・曼陀羅画、御宸筆の品々が雑然と並べてあったのが気に掛った。観光客は、突き当りの祇王寺が目当てて、この檀林寺門跡はガイドブックにも掲載しておらず、ひっそりとしている。
<壇林寺門跡>
住所:京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町  電話:075-871-3924
拝観時間:9:00~17:00 
拝観料:400円・障害者200円
交通: 市バス・京都バス「嵯峨釈迦堂前」下車徒歩約15分
    京福電車「京福嵐山駅」下車徒歩約20分
    阪急嵐山線「嵐山駅」下車徒歩約25分
    JR京都駅から嵯峨野線「嵯峨嵐山」下車(約15分)

2010年3月22日月曜日

洛中 火除天満宮(ひよけてんまんぐう)

人通りの多い寺町四条界隈は電気街、ビルの片隅に隠れた神社がある。
都における度重なる大火でも類焼を免れたことから「火除天満宮」と言われる。
寺町通にある鳥居
火除天満宮火除天満宮は天正7年(1579)、九州統一を賭け肥前・豊後・薩摩の戦国大名が決戦を行おうとしていた時期、兵乱を避けるため筑紫国大宰府(福岡県)から、一人の老神官が菅原道真公の像を背負って入洛し、六条通周辺に祀ったのが始まりといわれる。
その後、火除天満宮は天正15年(1587)に烏丸二条の地に大雲院(だいうんいん)が開創される際に、鎮守社として迎えられた。
豊臣秀吉の命により慶長2年(1597)に現在地に移された。
本当は正面だった「鳥居」と「石碑」東に20m位の参道を進むと本殿がある
天明8年(1788)の大火により大雲院は焼失したが、この時も天満宮は類焼だったという!また、元治元年(1864)の蛤御門の変での兵火は、南は七条、西は堀川、東は鴨川まで都の街を焼き尽くしたが、この火除天満宮一帯だけが奇跡的に類焼を免れたと伝わる。百貨店駐車場から鳥居、本殿を見る
地下水がいまも滾々(こんこん)と湧いている
明治時代以降も三度の火災に見舞われたが、この神社周辺は類焼を免れたと伝わり、学問成就と共に火除けの神として多くの信仰を集めている。昭和48年に大雲院は円山野外音楽堂西に移転した
その後、明治の神仏分離令により、火除天満宮は大雲院から分離、昭和48年(1973)大雲院は、東山の円山公園の現在地へ移転している。火除天満宮の前には旧大雲院跡の示す石標があり、大雲院は百貨店駐車場となっている。なお、境内には洛陽天満宮二十五社の第九番の石碑が残っている。
<火除天満宮>
場所:下京区寺町通四条下ル
拝観:境内自由
交通:阪急「河原町」駅下車直ぐ