2009年9月26日土曜日

清明神社:神幸祭

'五芒星
午后一時神輿が神社を出発した神幸祭は秋分の日、午后一時神社を出発した。
平安時代の陰陽師、安倍晴明を祀る晴明神社において神幸祭が行われた。先頭の少年鼓笛隊
堀川を南下する神輿の渡御あり、東は堀川通、西は智恵光院通 、北は上立売通、南は下長者町通の間の氏子町内を巡幸する。ミニ時代祭とも言われる祭列には、勇壮なる少年鼓笛隊を先頭に菊鉾、扇鉾、獅子、御神宝、飾馬、稚児、八乙女、獅子などの行列が続き、五芒星のはちまきにハッピ姿の威勢のよい担ぎ手により神輿が氏子区域を勇壮に練り歩いた。鳥居前を飾馬
獅子祭神、安倍晴明は倉稲魂命(うがのみたまのみこと)で、寛弘4年(1007)に一条天皇の勅使のより、晴明の邸宅跡に創建されたという。きれいに飾った子
少年の母を見る笑顔が可愛い!晴明は平安時代の陰陽師(おんみょうし)であり、星座の急変するのを見て花山天皇の退位を予知したとされている。また境内に晴明水があり、飲むと悪病難病が治ると伝えられている。子供たち引かれ!ワッショイ・ワッショイ
例祭は前日の宵宮祭より古式豊かに始まり御湯立神楽が奉納されるという。
神幸祭は午前10時より行われた。
祭儀には氏子多数が参列して献茶、献花等もあった。
獅子に噛みつかれ子供が泣き出しそうだ!一人前のポーズ!清明神社の境内には露店が立ちならびお祭気分を盛り上げ非常に賑やかだった。
行列が通る西陣界隈はお祭を楽しむ大勢の人々で賑わっていた。

2009年9月25日金曜日

高瀬川舟まつり

先斗町の舞妓さん
高瀬川舟まつり秋分の日、歴史のある高瀬川の魅力を伝える「高瀬川舟まつり」が催された。
高瀬川は江戸時代、豪商角倉了以(すみのくらりょうい)が二条~伏見間に開いた運河で、重要な物資輸送路となった高瀬川に高瀬舟を運航したことによる。復元された舟に乗舟
史跡の石碑「高瀬舟」で知られる「一之船入」とは、高瀬川の水運の起点辺りを言うが、全長約11,1m川幅、平均8mで9ヶ所の船出入りが設置され総工費七万五千両を要した。「木屋町」という町名は、材木屋の問屋が多かったという。
盛時には百数十艘が往来し大阪などに物資を運びいれた。高瀬川一之船入は京都の江戸時代の交通運輸の貴重な遺跡として史跡に指定されている。正面で撮影!
アップで舞妓さん!きれいな高瀬川を伝えようと1991年から地元の人たちが中心になり“高瀬川舟まつり”は始められて20回目という。
二条大橋に程近い高瀬川の一之船入付近では、江戸時代に使用された平底の舟が復元されていた。まつりに合わせて復元された舟に家族連れや観光客らが岸から移って川面の風景を楽しんだり記念写真を写していた。 500円でお抹茶がいただける
舞妓さんのお茶の接待特に高瀬川舟まつりのメインは先斗町の舞妓さんが舟に乗って華を添える!
皆、ここぞとばかり、カメラのシャッターを押していた。舟まつりでは舞妓さんのお茶の接待などもあった。また高瀬川舟まつりに限り、隣の島津創業記念資料館・がんこ高瀬川二条苑も無料だった。
その他の写真

2009年9月20日日曜日

豊国廟

巨大な五輪石塔(御墳墓高さ約10m)
豊国廟鳥居妙法院と智積院の間の女坂と呼ばれる長い坂道を上がると豊臣秀吉の廟所、豊国廟がある。豊国神社から東方に1Kmほど離れた阿弥陀ヶ峰山頂には、豊臣秀吉を埋葬した墓所、五輪石塔がある。石段から先は有料、長い石段が続く
拝殿豊国廟前の太閤担(だいら)といわれる広い境内には拝殿もあり神社跡地には、秀吉の側室松ノ丸殿と秀頼の子 国松の五輪塔が建っている。
拝殿横に受付があり、“豊国廟登拝券”を支払いするか、無人の場合は石段下の貯金箱のようなものにお金を入れる仕組みになっていた。石段から先は有料、長い石段が続く。
木々の緑陰のなか、まっすぐ延びた長い石段を休憩しながら一段一段とゆっくり登る!最初は足取りも軽かったがすぐヘトヘトになった!10段も登ると息が切れた!
慌てる事なない・・・石段に腰を下ろして一服した。
2,3人の参拝者がすれ違うだけの秀吉の廟所である・・・さぁ~歩こう!
しかし、また、10段も石段を登ればゼイゼイ息が苦しい。
一人の方に行き詰めれば終わりがと尋ねた!「もう少しですょ。がんばって・・・」320段の石段を登った途中、神門があった。神門をくぐると急角度に石段が迫ってくる中ほどに神門があるここから急角度の石段は170段もあり阿弥陀ヶ峰の頂上には秀吉の墓所、五輪石塔があった。慶長3年(1598)8月18日、秀吉は63歳を以って伏見城で亡くなった。遺言により阿弥陀ヶ峰中腹に葬られ、廟堂と社殿が建立、しかし、元和元年(1615)、豊臣氏の滅亡と共に廟は破壊され、墳墓に弔する人もなく荒廃した。
明治30年(1897)秀吉の300年忌に際し、廟が再建され、墳上には巨大な五輪石塔(御墳墓高さ約10m)が建てられた。
帰りは怖い石段!秀吉の側室松ノ丸殿と国松の五輪塔この正面石段は、489段だったがさて下山方法は・・・帰りはくれぐれも慎重に一段一段無事歩を進めた。
この地は、時代劇の映画のロケ地としても有名な所なそうである。
次回は方広寺を更新する予定

2009年9月19日土曜日

京都 豊国(とよくに)神社

豪華絢爛な唐門(国宝)
豪華絢爛な唐門(国宝)
豊国神社は京都東山の七条大和大路上るにある。
祭神は豊臣秀吉を祀り、一般に「ホウコクさん」の呼称で人々に親しまれている。
鳥居をくぐり参道を進むと、国宝の三唐門とも呼ばれているうちの一つ、伏見城の城門を移築したと云われる豪華絢爛な唐門(国宝)が見える。
本殿に礼拝する巫女・神主拝殿唐門の奥に拝殿、本殿があり関白太政大臣正一位豊臣秀吉公を神とし祀っている。秀吉の死去の翌年の慶長4年(1599)遺体が遺命により方広寺の近くの阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、その麓に方広寺の鎮守社として廟所が建立された。古式豊かに舞う舞楽
舞楽の奉納後陽成天皇から正一位の神階と「豊国大明神(ほうこくだいみょうじん)」の神号が贈られ鎮座祭が盛大に行われた。
しかし、元和元年(1615)大阪夏の陣により豊臣宗家が滅亡すると、徳川幕府により神号が廃され、社領は没収、社殿は徹底的に破壊され朽ちるままにされた。
秀吉の御霊は新日吉(いまひえ)神社に密かに移し祀られた。瓢箪の絵馬
燈籠明治元年(1868)明治天皇が大阪に行幸したとき、天下を統一しながら幕府は作らなかった豊臣秀吉の尊皇の功績を認め豊国神社の再興を布告した。また明治6年(1873)別格官幣社に列格した。
その後、明治13年(1880)方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が完成し、復興された。唐門は伏見城の遺構と伝え二条城から南禅寺の金地院を経て、ここに移築されたものでその両脇の石灯籠は秀吉思顧の大名が奉献したものである。往年の芸能人が瓢箪の絵馬を掲げた
提灯と瓢箪の絵馬
9月18日は死後、411年豊臣秀吉の命日(旧暦8月18日)にあたり例祭が営まれた。方広寺並びに豊国廟についても阿弥陀ヶ峰の頂上に上って来たが次回更新をする。

2009年9月15日火曜日

境内でナイトコンサート

小学生によるエレクトーン
最初は「かぐやひめ」で演奏大原野神社御田刈祭、奉納相撲は毎年9月10日に決まっていたが、最近では、9月の第2日曜日に開催されている。この神事は292年前から続く五穀豊穣を願う伝統の祭事である。
特に地元小学生による「豆力士の土俵入り」や誕生1年前後の男子乳児の「赤ちゃん土俵入り」は他所で見ることが出来ず、好評を博している。
夕方、18時から神社境内で氏子青年会達が主催でナイトコンサートが催された。
コンサートにはたくさんの観客、100席余りの椅子が用意されていた。
昼は地元の子供達の相撲大会だったがコンサートでは、日頃練習で鍛えた技術を披露するため幼稚園生や小学生によるエレクトーン、ギター演奏が続く。高い舞台に上った子供達の緊張した振る舞いに会場は和やかな笑みが広がる。ギターを演奏する子琴とフルートは斉藤さんと松波さん
次は琴とフルートの合奏で「春の海」とドリカムの「ラブ・ラブ・ラブ」の二曲を演奏した。春の海は琴の軽やかな音色とフルート伸びやかな音がマッチしていた。
また、地元京都芸大音楽部三回生の2人はピアノとバイオリンの演奏、モーツアルトの曲が奏で、初秋の夜長を満喫した。会場は本殿前の広場で周辺は深い木立が茂っている。演奏の合間に聞こえる”こおろぎ!の涼やかな声が賑やかだ。
久し振りに聴く、琴・フルートやバイオリンとピアノ、心地よい空間に酔い痺れた!
自然の虫の声と音楽が重なり合い、とても不思議な気分で感動した。
地元学芸大の瑞穂さん大太鼓最後は、洛西竹太筒の登場だ。はじめて見る楽器で活動エリア西京区で活動メンバーは人数13名という。最初は「かぐやひめ」で演奏が始まった。現世を離れ、幻想の世界に溶け込んでいく。ふと、かぐや姫が月へと旅立つ様子が・・・
1985年「竹太筒(たけだいこ)」が誕生したもので竹太鼓とは言わないという!
竹太筒とは竹を素材にした創作太鼓集団だという。
最後の演奏は「あらし」で、多くの子供達が舞台に上がり8拍子の賑やかなリズム演奏が始まった。自然と笑顔が浮かぶ、楽しい夜だった。各地のイベントにも出演依頼も多く好評を得ている。また海外の公演も多く、地元の人たちに絶賛されているという。 竹太筒
舞台に上がり8拍子リズムで・・昼の豆力士や男子乳児「赤ちゃん土俵入り」も好かったが洛西竹太筒は迫力があり充実した楽しい時間だった。神社の境内でのコンサートは、様々なジャンルの演奏が一同に行われ一夜を楽しく過ごすことができた。

2009年9月14日月曜日

御田刈祭(大原野神社)

大原野神社で9月13日に御田刈(みたかり)祭
五穀豊穣を奉謝する祭儀で神事洛西南春日の大原野神社で9月13日に御田刈(みたかり)祭があり奉納相撲が行なわれた。大原野神社は奈良春日大社から勧請を受けたもので、京春日(きょうかすが)の別称もある由緒正しき神社である。祭神は春日大社と同じで、武御賀豆智命(武甕槌命)・伊波比主命(経津主命)・天之子八根命(天児屋根命)・比咩大神(比売神)である。
神(かみ)相撲と呼ばれ、氏子を代表する力士二人少年横綱土俵入奉納
大原野神社の特殊神事御田刈祭は、享保二年(1717)から続けられている秋の五穀豊穣を奉謝する祭儀で、神事のあと相撲の奉納が行われた。
相撲は神(かみ)相撲と呼ばれ、氏子を代表する力士二人「氏神・(藤原氏・北春日と秦氏・南春日)」が清めの塩を包んだ白紙を口にくわえて、四本柱をご神酒と塩で清めて相撲をとるもので、二回戦が行われ両者「引き分け」で争いが起こらないように助け合って神に誓いを立てるという慣わし。泣き相撲ちびっ子力士による奉納相撲大会
神相撲に引き続き、少年横綱土俵入と洛西地区小学生四年生から六年生による「豆力士」の奉納相撲大会が行われた。
さらに御田刈祭のメインの一つ、赤ちゃんが相撲をする「泣き相撲」が行われ一歳前後の男子乳児による「赤ちゃん土俵入り」があり、大いに賑わった。スクスク元気に育つようにママと離れて少し不安!
京都の泣き相撲は大人が赤ちゃんを抱えて、土俵でシコを踏み、最後に土俵に寝かせて土をつけるとスクスク元気に育つ、という縁起ものの儀式で参加人員は30名あまりと多数だった。
赤ちゃんはベビー服を着替えし、その柔肌には小さな“フンドシ”が巻かれ「祈・大原野神社・健」の文字が書れていた。母親から引き離され、行司に抱えられて土俵入りした赤ちゃんは神相撲の二人の力士に預けられる。力士が「ヨイショ、ヨイショ」とシコを踏む
おとなしい子・泣き叫ぶ子など・・・性格様々力士は、赤ちゃんを抱えながら左手と右手で「ヨイショ、ヨイショ」とシコを踏む儀式をする。おとなしい子・泣き叫ぶ子など・・・中には眠り続ける子や平気な顔をしている豪傑な男子もいる。しっかりと土俵の上に足を踏ん張り、ゴムのようにビヨーンと反り返りなかなか仰向けにできない赤ちゃんもおった!
二人の力士も抱っこしてシコを踏む役も儘ならない!会場は笑いが絶えない・・・無事縁起の儀式が済み「ちえ守り」の榊を授与される
ママも心配で・・無事、縁起の儀式を終えやっと母親の手の抱かれた赤ちゃんは、鹿が描かれた「ちえ守り」の榊を授与される。“赤ちゃん土俵入り”が出来るのは生誕一歳前後の男児、南区や向日市からも来ていた。
国技でもある大相撲秋場所も始まったが相撲は神事としての意味深いものがある。つづく・・・