2011年4月20日水曜日

桂離宮(かつらりきゅう)その1

宮殿「桂離宮」は西京区桂川西岸に位置し、市内から離れた桂大橋西北に在る。江戸時代初期に、初代・八条宮智仁親王と二代智忠親王が別荘として造営したもので、敷地面積約7ヘクタールの離宮は日本庭園として最高の名園といわれている。
八条通りがある桂大橋、遠方に比叡山東側にある桂川沿いの竹塀
中央に心字池があり、大小五つの中島に土橋、板橋、石橋を渡し、その周りに書院など七つの茶亭を配した回遊式の庭園は日本庭園の傑作である。 苑路を進むと池は全く姿を消したり、眼前に洋々と広がったり、その変化に驚いてしまう!
桂離宮には真(しん)行(ぎょう)早(そう)の三つの飛石があり、庭の敷石で長方形の切り石と自然石とを組み合わせた延段の飛石の変化を楽しみつつ、入江や州浜・山里で深く四季折々映し出される自然の美を味わいたい!
桂離宮の略図老舗の中村軒はお茶処、麦代餅が名高い
桂離宮の起こりは江戸初期1615(元和元)年頃に桂の地を得られ、35年の歳月をかけ完成された八条宮家の別荘として造営された。
この地は古くから貴族の別荘地として知られ、桂と謂う地名も中国の「月桂」からの由来だとされている。近くの松室には月読神社もあり、風流な観月の名所としても知られていて平安時代には藤原道長の別荘が営まれていたという。作庭は“小堀遠州”ではない!しかし、庭園、建築は遠州好みの技法が随所に見受けられ、智仁・智忠親王の趣味趣向や工匠、造園師らの技が一致したものである。
飛石を歩く事、それは自然に芽を吹くコケに要注意普段出入りは黒御門が使用されている
桂離宮の歴史は、後陽成天皇の弟・初代・智仁親王は、初め豊臣秀吉の養子となったが、秀吉に実子が誕生したため、八条宮家(桂宮家)を創設したものである。
親王が40歳台前半に古書院が建設したが死没後10年余り山荘も荒廃していた。二代智忠親王は加賀前田藩主の息女と結婚され山荘復興・増築に意欲的に取り組んだ。1662(寛文2)年ごろは、中書院、新御殿、月波楼、松琴亭、賞花亭、笑意軒等を新増築された。
茅葺切妻屋根を棈(あまべき)の自然皮付丸太で支えた御幸門離宮の北側にある表門、特別な場合以外開けられない表門と御幸門(みゆきもん)は離宮の北側にあり表門は桂離宮の正門である。特別の場合以外は開けられることはない。普段の出入りは、右手、南側に回り込んだ所にある黒御門が使用されている。
表門は、檜丸太を門柱とし、磨き竹を縦に隙問なく打ち並べてある。その少し奥に茅葺切妻屋根を棈(あまべき)という自然木の皮付丸太で支えた御幸門がある。
この門は、後水尾上皇をお迎えするのに当たり智忠親王が造られたと伝えられるが、その後失われ、家仁親王の時に再建されたという。対面は蘇鉄山で薩摩島津家から献上された茶室松琴亭の待合い腰掛で雪隠(トイレ)が付いてる
御幸道の中ほどから左に折れ苑内に入ると外腰掛(そとこしかけ)がある。茅葺寄棟造りの深々とした感じの屋根を皮付丸太で支えるだけの吹き放しで、雪隠(せっちん)便所が付いている。
茶室・松琴亭の待合い腰掛であり、前を自然石と切り石を巧みに配した延段が長く延び、両端を二重桝形(ますがた)の手水鉢と丈の低い灯籠で引き締めている。対面は蘇鉄山であり、蘇鉄は薩摩島津家から献上されたと伝えられている。松琴亭茶室から眺める心字池と書院と月波楼
左、岬の灯台に見立てて「海」を演出している、奥建物は松琴亭洲浜(すはま)は黒く扁平な石が敷き詰められ池に突き出している。先端に灯籠を据えて岬の灯台に見立てて「海」を演出している。その先の中島と石橋のつながりは、「天の橋立」に見立てたものと言われている。松琴亭より中島と石橋をつなぐ天橋立
一本の切り石を渡ると松琴亭の茶室である

桂離宮で最も格の高い茅葺入母屋造りの茶室で“一本の切石”を渡した橋を渡ると「松琴亭」である。橋を渡る手前から松琴亭屋根の妻に「松琴」の扁額が見える。
後陽成天皇の宸筆で、「琴の音に峯の松風通ふらし・・・」の句から採られている。
にじり口の内側は三畳台目(茶室用の畳)の本格的な茶室で、遠州好みの八窓の囲いである。松琴亭外観は、東、北、西の三方から眺めるとそれぞれに異なる風情が楽しめる。
一の間の床や襖の青と白の市松模様は現代、相通ずる斬新さをもっている遠州好みの八窓の囲い
北側廊下の竈(かまど)構えと一の間の床や襖の青と白の市松模様は大胆かつ柔軟な発想と創意によるもので、そのデザインは現代になおいきいきと相通ずる斬新さをもっている。
いよいよ小高い丘、賞花亭にのぼる陽光が射す桂離宮
二代智忠親王は父の後を譲り受け、研ぎすまれた美的感覚は池や庭園でもわかるように今日に見るような山荘の姿に整えられたのである。後半つづく・・・

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