2012年6月2日土曜日

復活「了以忌・川施餓鬼」

2日、嵐山大堰川で保津川や高瀬川などの開削に尽力した京の豪商・角倉了以(すみのくらりょうい)(1554~1614年)を偲ぶ「了以忌・川施餓鬼」が営まれた。 角倉了以ゆかりの大悲閣は、渡月小橋から大堰川上流川沿いに続く細い道で嵐山温泉「嵐峡館」があり、大悲閣への登り口になっている。
了以忌・川施餓鬼は舞を舞う京の豪商・角倉了以(すみのくらりょうい)(1554~1614年)を偲ぶ「了以忌・川施餓鬼」が営まれた 大悲閣は、大悲閣千光寺といい、角倉了以が、保津川、大堰川河川工事中に犠牲になった人々の菩提を弔うために嵯峨、中院にあった千光寺を中興するということで移築した。

プレ「了以忌・川施餓鬼」が営まれた法要は般若経をあげる
了以は戦国時代から江戸初期を生きた人で、豊臣秀吉から朱印状を得て、海外貿易を行った京都の豪商で、私財を投じて大堰川や高瀬川を開き、幕府の命令で富士川や天竜川も切り開いた 土木事業家だった。 自己の利益を考えるばかりでなく、人のためにもならなくては事業の意味がないという考えを持った了以は、商売の交渉は息子に任せ、自分は物資の輸送が便利に出来るよう土木事業に没頭し、 工事によって被害の出た農民に補償をするという、当時の社会としては驚くべき考え方を持った人でもあった。
大悲閣千光寺は、了以が河川開削工事で亡くなった人たちを弔うために建立した建物である。1950年(昭和25)頃までは「了以忌・川施餓鬼」の法要を営んでいたがその後、ぷっつりと途絶えた。
大堰川上流を目指して船はゆっくりと進んだ 来年は400年忌、盛大になること期待して・・・

今年は没399年で復活で、来年は了以400年忌ということで「平成の了以像」も可能になり「多くの人に了以を知ってもらい、その精神を生かしていきたい」と関係者は話していた。嵐山の「観音堂」という意味で本尊の千手観音菩薩、仏教の慈悲の「悲」をとって大悲閣と名付けたという。

0 件のコメント: