2010年5月20日木曜日

上御霊神社 御霊祭

上御霊神社は地下鉄鞍馬口駅を南出口下る東へ300m鳥居・西門がある。上御霊神社は俗称で、正式名は「御霊神社」御霊(ごりょう)さんと呼ばれ親しまれている。拝殿から降ろされる末広社の神輿
本殿と小栗栖宮司上京区東部の氏神様で平安京の守り神として崇道(すどう)天皇を祀ったのが始まりとされ、八柱を祀っている。平安時代の御霊社の一つで、怨霊を鎮めるために桓武天皇の勅願により造られた。拝殿では神職の神事が行われた
祭神は崇道天皇はじめ、13柱の神霊を祀る784(延暦3)年、桓武天皇は長岡へ都を遷した。ここで事件が起こった。
藤原種継暗殺事件である。当時、長岡京造宮司であった種継は早良親王と敵対しており、親王が暗殺事作の首謀者と見なされたのだ。
早良親王は、桓武天皇の同母弟である。拝殿から降ろすのにかなり神経がいる!
神輿は詳細な彫物が施してある乙訓寺に監禁され、淡路へ配流されることになった親王は無実であることを訴え、自ら食を断った。そして10日余りが経ち、宮内卿、石川恒守らが淡路へ移送する途中、高瀬橋頭で絶命した。恒守は、そのまま早良親王の遺体を淡路へ運んで葬った。四神相応、白虎
本殿と拝殿は身動きが取れない異変が連続して起こったのは、それからである。桓武天皇の妻の藤原旅子が死に、ついで母の高野新笠、皇后藤原乙牟漏が次々と他界。さらに皇太子安殿の病気が長びいているのを占ったところ、皇位を廃された早良親王の祟りとでた。
朝廷はさっそく諸陵頭調使王(しょりょうかみずしおう)らを淡路国へ遺わし、奉謝を行った。
連続する天変地異、天皇の周辺に連続して起こる近親者の死。早良祟る、の思いは桓武天皇をはじめ為政者たち共通の思いであった。800(延暦19)年7月、桓武天皇はついに早良親王に「崇道天皇」の尊号を贈った。-『学研 天皇の本』-
三基の神輿は拝殿から担ぎ手で準備される五穀豊穣を神輿に託して
これが上御霊神社の始まりとされる。
御霊とは、政争に巻き込まれて非業の死をとげた人の霊のことであり、当時はしばしば悪疫が流行し、これを御霊の祟りと考え、祀ったのである。さぁ~行列はスタート!!
南門では太鼓が打ち鳴らされていた863(貞観5)年、三代実録条に、「所謂御霊者、崇道天皇、伊予親王、藤原夫人、及観察使、橘逸勢、文室宮田麻呂等是也」とあり、神泉苑で御霊会が行われている。はっぴ・ねじり鉢巻で参加する可愛い幼児もいた
社殿は1755(宝暦5)年、禁裏の内侍所の建物を賜って造営したという。
天災や疫病が流行すると御霊をまって鎮め、災いを無くそうとした御霊信仰があり、人間関係や仕事などのストレスのこころの病気を治して、いつも平常心でいられるように、いまも人々は心を鎮める御霊神社のお守りを授かっている。
同神社では5月18日に御霊祭が行われ、境内の拝殿には提灯や巡行する三基の神輿も飾られた。つづく・・・

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