2010年5月9日日曜日

宇治 平等院

つづき・・・宇治の平等院は5年ぶり久々に来たが宇治橋上から見る山川の景色が美しい。鳳凰のレプリカ、鳳翔館展示してある「十円」銅貨の図柄と同じ光景の平等院
京都南の宇治の地は、源氏物語の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。源氏物語に登場する光源氏のモデルとされている左大臣源融(みなもととおる)の別荘が平等院の前身で融の死後、宇多天皇の別荘となり、さらに天皇の孫の源重信(みなもとしげのぶ)へ移った。その後、藤原道長が譲り受け別荘「宇治殿」とされた。鳳凰堂に渡る橋
浄土式の借景庭園として史跡名勝庭園に指定されている
1052(永承7)年、「仏の救済はすべてに平等」という意味をこめて平等院は完成し、関白藤原頼道は、父・道長からゆずりうけた別荘を寺に改めた。釈迦没後二千年、仏の教えが廃れる末法の世の始まりとされ、人々の間に穢れた現世を離れ、光に満ちた極楽への生まれ変われるという阿弥陀信仰が広まっていた。頼政の亡き後、源平の戦いが始まった!
扇の芝世は末法思想を広く信じ浄土信仰が流行し、貴族も僧侶も民衆も極楽往生を願って阿弥陀仏に救いを求めた。翌1053(天喜元)年、その信仰のもと建立されたのが阿弥陀堂、現在の鳳凰堂である。その後頼道一族の手によって法華堂・経堂など、堂塔が加えられ壮麗な境内は「極楽いぶかしくば宇治のみてらをうやまへ」と讃えられた。しかし、観音堂の北に、隠れるようにひっそりとあるのが「扇の芝」扇の形に植えられた芝がある。源頼政の墓
不動明王がある不動堂、「火難よけ不動尊」1180(治承4)年の源頼政の橋合戦で、平清盛から追われることになった頼政は、宇治川で追ってきた平知盛(とももり)軍に敗れ、観音堂で自刀した。また、平等院塔頭の最勝院境内に、頼政の供養塔がある。なお、令旨は、伊豆の頼朝、木曽の義仲、奥州の義経へも届けられていて、源平合戦の幕が広げられたという。
また1336(建武3)年には、楠正茂軍の戦火をうけて鳳凰堂・観音堂・鐘楼を残し、多くの寺宝や堂塔が失われた。
江戸時代には、鳳凰堂の本格的な修理が実現され境内には塔頭・子院・茶師寄進の堂などが建てられた。明治の廃仏毀釈を経た後は、国の文化財とされた鳳凰堂を、1950~57(昭和25~32)年の大修理の後、公開された。1994(平成6)年ユネスコの世界遺産にも登録される文化財の一部は、2001(平成13)年開館の「ミュージアム鳳翔館」によって保存・展示されている。 宇治川の橘橋
全身に唐草や天人などの文様を施しているのが特徴である境内へ入ると左手は「観音堂」順路に沿って進むと、池(阿字池)を挟んで鳳凰堂(阿弥陀堂)の正面になり、「十円」銅貨の図柄と同じ光景を目にすることができる。
梵鐘(国宝)「姿の平等院鐘」は、日本三名鐘の一つに上げられている。さらに平等院塔頭・浄土院、不動院、最勝院と続き境内を一周できる。
現在、平等院鳳凰堂に本尊丈六阿弥陀如来坐像(国宝)を安置し囲むようにして掛けられた雲中供養菩薩像(52躰)を見ることができる。開山は明尊。
創建当時、鳳凰堂は阿弥陀如来の坐す中堂内部は鮮やかな色彩の極楽浄土であったと伝えられている。二刀流で有名な武蔵も茶店で一服した「つうゑん」
平等院ミュージアム鳳翔館入口阿字池の護岸は2002(平成14)年に、発掘調査をもとに復元され、約千年前に建立された建造物や仏像が今に伝えられている。
「平等院ミュージアム鳳翔館」には国宝や重要な宝物が展示してあり、阿字池の向こうは現世を離れ、極楽浄土のなかへ入ったような感じがし、一千年来の藤原文化の精華を今日に守り伝えて世界遺産にも登録されている。つづく・・・

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