2013年9月13日金曜日

障害者になって16年

   脳内出血をしてから、16年と言う歳月になってしまった。その後、病気も安定し洛西の病院に週一度リハビリに通っている。
  16年前の平成9年9月12日金曜日4時半ごろ、知人宅の友禅工場に遊びに行っているとき、気分が悪くなり倒れた。52歳だった。その後の事は意識不明でまったく覚えていなく、 呼吸はあるもののいわば生死をさまよう亡霊のようだったと回顧する?
  救急隊員が車を西京区千代原口の病院のICUに到着したのは19:00ごろだった。その時の表情は瞬きもせず眼を見開いて、(家内に尋ねると・・・)何も返答がなかったという。それもそうだろう、意識がないのだから・・・。
  当時12日、入院した日は金曜日で敬老の日と重なって三連休で脳開頭手術は遅れてしまった?。家内の介護も虚しく意識不明が一ヶ月あまりに達し困憊した。 主治医は、もし助かってもこのまま寝たきりの日が続き、治っても車イス生活だろうといって家内を落胆させたという。巡回のナースは眼の瞳孔を調べ、左足と右足裏にボールペンを突き刺して反応を見た!左足は痛く引っ込めたが右足は伸ばしたままだった。
   しかし、意識も元戻り一命を取りとめる事ができた。食事は嚥下障害のため飲み込めず、こぼす始末で赤ちゃんみたいによだれがダラダラと流れる状態だった。家内は三度の食事に付きっ切りだった。
  やっと一月もたち意識が回復、当時病院リハビリの方には随分お世話を頂いた。病院寝たきりの日々、車イス生活から一歩立上がって座る回数を増やし平行棒で歩行を学んだ。右半身マヒというレッテルを貼られ、解っているのに言葉が話せない!言語障害はストレスが溜まった。でも病院主治医や作業療法士(OT)や理学療法士(PT)、言語聴覚士(ST)の甲斐あって退院することが出来た。   
 いまでは三重県の榊原温泉病院や京都市のリハビリテーションセンターの一年間の闘病生活をしたことが懐かしい。
  縁あって桂坂に住まいを構えたが病気を患い家庭は火の車、家内は着物や宝石類などすべて二束三文で投げ出し無財産になった! 病気を患ったとき息子は桂坂小学校2年生、16年も経ち学園大を出て今、伏見区の医療関係に就職している。余談だが息子の健康診断があり、その結果何もないことが判明、診断医師が再度受けなおしてと言ったと笑い話があった。
  脳卒中は遺伝か?実父も50年前脳卒中で帰らぬ人となっている!
 一命を免れ16年経った今日、診察やリハビリは大切であると感じている。

0 件のコメント: