2010年10月12日火曜日

洛南 矢取地蔵堂(やとりじぞうどう)

つづく・・・平安京の玄関口を偲ぶ“矢取地蔵”は別名、矢負(やおい)地蔵とも呼ばれ、九条千本の羅城門跡にある小さなお堂に祀られている。
平安時代初期のこと、嵯峨天皇の命で造営された東寺と西寺は、その勢力を競っていた。東寺には今に続く真言宗の開祖・空海がおり、一方の西寺には守敏(しゅびん)という僧がいた。 矢取地蔵は別名、矢負地蔵とも呼ばれている
小さな地蔵堂は地元 唐橋の人々から寄進・建立された824(天長元)年夏、日照りが続き人々は飢えと渇きに苦しんでいた。
ときの天皇、淳和天皇は空海と守敏に神泉苑(京都市中京区)で雨乞い祈祷を命じた。先に西寺の守敏が17日間祈念を続けたが、雨は降らなった。
次に、空海が願をかけると、天竺の無熱池に棲む善女龍王(ぜんにょりゅうおう)を勧請し、降雨祈祷を行い、みごとに三日三晩にわたって雨が続いたという。
「雨乞い合戦」は空海に軍配が上がった。
これにより、神泉苑において雨乞いの儀式が行われるようになったといわれる。矢負地蔵由来記
合戦に敗れ、面目をつぶされた守敏は空海をねたみ、羅城門近くで待ち伏せし後から矢を放った。するとそこに一人の黒衣の僧が現れ、守敏の矢を右肩に受け、空海は難を逃れたという。空海の身代わりになった僧は、実はお地蔵さまの化身であり、のちにそのお地蔵さまは「矢取地蔵」とか「矢負地蔵」と呼ばれ、人々の信仰を集めてきたという。
石造、本尊矢取地蔵尊は高さ約160cm、別名「矢負地蔵」と称され、右肩に矢傷の跡が残っていると伝えられている。
小さな地蔵堂は1885(明治18)年地元 唐橋の(八条村)人々により寄進され建立された。なお昭和初期には、地蔵堂の周辺から多数の地蔵が発掘され、現在も堂宇の右側に祀られている。「その昔、この辺りは刑場があり、お地蔵さんは打ち首になった人の供養塔・・・だが、お地蔵さんは“子どもの守り本尊”で大事にしたい」と地元の人は話している。堂宇の右側に地蔵が多数祀られている
小さな境内にはカリンが実っていた四季の花々が手向けられ、地元の人々が手を合わせ、大切に守られてきた様子が伝わってくる地蔵堂「矢取地蔵尊」は今日もまた優しい顔で民衆を見守っている。
(完)
<矢取地蔵堂>
場所:京都市南区唐橋羅城門
交通:市バス羅城門直ぐ

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