2010年10月6日水曜日

京都御苑 各門と通用口(その2)

つづく・・・上京区にある京都御苑内には、約5万本の樹木が生育していて、御所の歴史と由緒ある景観を維持している。
京都御苑周囲の地区一帯は約63haの面積で国民公園に指定されている。今出川御門
糸桜の名所、近衛邸跡総面積は約92haで京都御苑は葵祭や時代祭など市内の中心部に位置し、観光にもオアシスにも好く利用しているが、国民公園は都市公園とは異なり、環境省が管理する公園である。
国民公園は東京の皇居外苑・新宿御苑と京都御苑の日本で三ヶ所しかない。明治天皇が産湯使った場所
中山邸跡1869(明治2)年、明治天皇が東京遷都により多くの公家たちも東京に移住し、それまで御所周辺の約200余りの公家屋敷はすっかり荒廃していった。1877(明治10)年に京都に還幸された明治天皇が、京都御所一帯の荒れ果てた様子を見て深く嘆き、御所保存を命じられ、10年間で「大内保存事業」が進められたが、京都民衆の力のもと僅か6年間で復興が終り現在の京都御苑の始まりである。石薬師御門
今出川口さて今出川御門は北に位置し京都御所の朔平門に近く、近衛家は五摂家の一つで摂政・関白など多数が出世した。また御所炎上の際には屋敷は仮の皇居にもなったという。近衛邸跡の池の畔は、昔から糸桜の名所で桜の咲くころ、大勢の人が花見に訪れている。今出川御門の左は桂宮邸跡。
この辺りの森は自然のまま放置している京都御所の鬼門位置に猿ヶ辻がある。
この猿は日吉山王神社(ひえさんのうじんじゃ)の使者だが、夜悪さをする為、金網で閉じ込めたと言う。一方、幕末のさなかの1863(文久3)年、公家の一人がこの付近で暗殺。猿ヶ辻の変という。
その向かい側に中山邸跡と祐(さち)ノ井がある。

中山忠能(ただやす)は幕末期、權大納言の要職でその娘、慶子(よしこ)を母とし、1852(嘉永5)年、祐宮「さちのみや(後の明治天皇)」が誕生した。 鳥の囀りを聞きながら森で本と親しむ
敷地内には産屋と井戸が遺っている。祐宮にちなんで祐ノ井と名付けられた。今出川口に出られる。
いよいよ寺町今出川を南下し石薬師御門、この辺りの森は“枝打ち”などせずに自然のまま放置し、枯れ枝が落下するので立て看板で注意を払っているが、野鳥の宝庫、鳥の囀りを聞きながら森で本と親しむのも好い。 染殿井の遺構がある
京都迎賓館の外壁散歩道を進むと真新しい壁は、京都迎賓館、「染殿第跡」で、平安時代前期に臣下として、最初の摂政に任じられ、摂関政治の礎を築いた、藤原良房の邸があった所と言われておる。
ここにある井戸は「染殿井」と呼ばれているのも、染殿第にちなんだものだという。あと、門は二つになった。
清和院御門清和院御門の名の由来は、染殿第は、良房の娘・明子(文徳天皇の后で清和天皇の生母)の御所であり、清和天皇は譲位後、ここに移されて「清和院」になったという。なるほと、御門には深い意味が込められている。清和院御門をあとに大宮・仙洞御所の長い丙伝いに寺町御門へと歩いた。
寺町御門寺町御門は百日紅が綺麗に咲き、北に大宮・仙洞御所、南に富小路広場があり、老若男女の方が散策や休養などスポーツの場やふれあいを楽しみに訪れていた。またトンボ池もある。
1949(昭和24)年、京都御苑は国民公園として広く開放され現在に至っている。
(完)

近衛邸跡の池の畔「孝明天皇」の歌
 昔より 名にはきけども 今日みれば むべめかれせぬ 糸さくらかな

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