2014年12月17日水曜日

山科義士まつり2

今年で40回目というが初めて毘沙門堂から大石神社まで行列に参加した。関西はもとより、広く全国から多くの観光客や市民に喜んでいただくまつりに成長し、毎年創意工夫を凝らし、手づくりのまつりを運営している。
幼稚園児による子ども義士隊。
大石内蔵助役の園児。昼食のため休憩した東部文化会館では忠臣蔵という「刃傷松の廊下」や「切腹」、「連判状改め」「討ち入り」など写真が撮れなく残念だった。
小さな手を合わす童女が印象的だった。
きつい坂を登ると岩屋寺。岩屋寺へ向う坂を登るちびっこ義士隊と、小さな手を合わす童女が印象的だった。
江戸城「松の廊下」で播州赤穂藩主 浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に対する恨みから刃傷に及んだ。
可愛い歌舞伎役者たち。
『仮名手本忠臣蔵』の出演者。将軍・徳川綱吉の儀式あり、それを台無しにされたことに激怒、綱吉は、内匠頭を即日切腹、浅野家の断絶を命じたという。
奉納行事、山科こども歌舞伎 『仮名手本忠臣蔵』の出演者は本堂前で記念撮影した。
大石さん、6㌔道程、ご苦労さんでした!
しかし、吉良上野介に対しては手向かいしなかったとして何のお咎めもなかったという。元禄14年3月14日(1701年4月21日)のことである。
義士たちは、亡君の眠る泉岳寺へ向かい、上野介の首を墓前に捧げ、仇討ちが終わったことを報告したという。
義士隊四十七士は、大石神社で勝ちどきを挙げた。
その後、細川・松平(久松)・毛利・水野の四家へお預けとなった。
女性陣による「大石音頭」、「元禄花見踊り」。将軍綱吉は毘沙門堂門跡・公辧法親王に意見を求め、綱吉は四十七士全員「切腹」を命じる決断となり、忠臣蔵として後世まで語り注がれる事になった。
大石神社本殿では奉納行事、山科こども歌舞伎 『仮名手本忠臣蔵』が午後12時半から開演(有料)している。(12/14撮影)

0 件のコメント: