3日、北野天満宮楼門には災難厄除けのお札とお守り及び銀幣が掲げられていた。
京都、乾の隅(いぬいのすみ)西北の隅は、北野の地にあたり古くより節分には北野の追儺式として節分の行事が行われていた。
節分の日に行われる「追儺(鬼やらい)」の儀式は、向う一年の災厄を祓い病いを除く祈りをこめた重要な年中行事であり、午後1時からは神楽殿にて茂山千五郎社中による福の神が鬼を払う「北野追儺狂言」の奉納が行われた。
豆まきは中国の習俗が伝わったものとされ、平安時代に起源のある「追儺(ついな)」という行事から生まれもので、宮中で鬼払いの儀式を行われていたという。
節分というと思い浮かべるのが豆まきで、子どもの頃からの習慣で何となく豆をまいて「鬼は外」と「福は内」と叫んだ記憶が残っている。
起源は中国の鬼祓いの意味があり、節分の豆まきと鬼は日本人の歴史に根差した年中行事とされている。続いて上七軒歌舞会による芸舞妓さんによる舞踊奉納も行われた。
この時期、京都では表鬼門の吉田神社で裏鬼門の壬生寺が有名で無病息災・招福繁栄を願い大勢の参詣者でごったがえし町衆の文化が深く根付いたもので節分の豆まきには、厄を払うという意味がある。
昔、悪鬼は深泥池に棲み魔所とされ常に不浄を避け、手厚くお祀りをせねばならない大切な場所とされていた。
豆は「魔滅(まめ)」に通じ、無病息災を祈り鬼を退散させ、豆(魔目まめ)を投げつけて魔を滅っする(魔滅=まめ)という。
炒った豆を一家の主人や、またその年の干支生まれの「年男」がまくもので、家族は自分の数え年の数だけ豆を食べると病気にならず健康でいられると言われている。
北野上七軒は豊臣秀吉が造った京都で一番古い花街であり、舞妓さん三人と芸妓さん二人の舞踊が披露された。
そのあとはお待ちかねの茂山社中と上七軒の芸舞妓さん全員で豆まきが行われた。
節分は邪気を払い家内安全を願い、立春の前日をさし一年の始まりとしたため、大晦日と同じように考えられていたという。(2/3撮影)
つづいて、千本釈迦堂の「おかめ節分会」に歩いた。
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