2010年10月26日火曜日

平安神宮 時代祭

つづく・・・明治維新から平安時代へと遡る時代祭の魅力は千年の歴史絵巻が彩る伝統祭事である。応手門に着いた鳳輦大鳥居の中を進む巡行の人たち
京都の三大祭といえば、5月15日の葵祭、7月17日祇園祭山鉾巡行と10月22日の時代祭であるが、平安神宮は創建115年で比較的新しい、過去戦争や天災などで中止の年もあったが今年で106回目を迎えた。牛車
門の中をくぐる二基の鳳輦1895(明治28)年明治維新後、京の街おこしの集大成となって、平安京を造営した桓武天皇を祭神として神宮が建立された。 銅像・高山彦九郎を前に進む行列
三条大橋で舞妓さんも時代祭を・・・時代風俗行列巡行は、人員約2000名牛馬70頭で京都御苑から河原町御池通りの繁華街を通過し、平安神宮に向う。
三条大橋で舞妓姿を発見!!すぐ傍が先斗町歌舞練場である。
三条京阪前では、江戸時代後期の尊皇思想家である“高山彦九郎の銅像”を前を巡行する。三条神宮道で右折、いよいよ応手門が近い・・・平安神宮大鳥居前に入った。巡行は京都御苑~平安神宮間約4,5kmの道のりで華やかになり都大路を練り歩いた。“風俗史の時代行列”は京都人の誇り
京都御苑から平安神宮まで4.5kmの道程時代祭は時ともに忘れがちな昨今、京都人の心粋と誇りが織り込まれている“風俗史の時代行列”。京都の歴史を知る上でも華やかに大切に盛り上げるための伝統祭事である。花を頭にのせて売り歩く白川女
豪華な歴史絵巻が彩る大行列は8つの時代に構成され、沿道に詰めかけた大勢の市民や観光客は広大な大パノラマに魅了した。
(完)
時代祭有料観覧席”は(京都御苑・御池通・平安神宮道)1席2000円(全席指定・パンフレット付)で97日より予約受付している。

2010年10月25日月曜日

時代祭 京都御苑

つづく・・・京都の千年の歴史絵巻が彩る伝統祭事・時代風俗行列が正午、建礼門前からスタートされた。槍持の奴が毛槍を投げ渡す、掛声は当時を偲ばせてくれる維新勤皇の隊列
“ぴ~ひゃら”と軽快に笛や太鼓を奏でる維新勤王隊列を先頭に、丹波からは官軍派の山国隊、西郷吉之助、桂小五郎や坂本龍馬・中岡慎太郎や高杉晋作、吉田松陰など幕末の志士・明治維新時代が続いた。 駕籠、4人では重たかろう!
徳川城使役の大役徳川城使上洛列では江戸時代、槍持、傘持、鋏箱(はさみばこ)持の掛声、動作は当時を行列の有様を偲ばせる。島原の名姑、吉野太夫
天皇の皇女・和宮江戸時代婦人列は孝明天皇の皇女・和宮や太田垣蓮月、中村内蔵助の妻、吉野太夫、出雲阿国など優美な十二単(ひとえ)や清らかな小袖姿を披露した。牛車はおもうように動かない!
歌舞伎の創始者、出雲の阿国武家風俗を代表する大名、安土桃山時代の武将は織田信長や羽柴秀吉・柴田勝家など、室町幕府、足利将軍を中心とした当時の武士の軽武装姿を表現していた。室町時代の武士の装束
応仁の乱後、織田信長は上洛し復興に尽した洛中風俗列では風流踊りは、江戸時代以降、盆踊りの原型にもなっているという。桂女は鮎や桂飴など売り歩いていた
町衆による風流踊りが流行した楠公上洛列では楠木正茂、衣冠装束の甲冑(かっちゅう)姿で堂々と歩いた。義経の愛人、静御前
浅井長政の娘、淀君中世婦人列では薪や炭を頭にのせた「大原女」や桂川の鮎や桂飴を売る「桂女」、また豊太閣の側室・淀君さらに静御前はこの時代の風俗を示していた。城南やぶさめ
木曽義仲のちょう愛うけた巴御前鎌倉時代では城南離宮で行われた流鏑馬の狩装束の射手の武士の姿をしている。清少納言は枕草子の著者、紫式部は源氏物語の作者
建礼門院雑仕女、横笛平安時代中期、藤原氏が最も隆盛した時代の文官・武官や、平安時代の紫式部・清少納言や小野小町・巴御前、横笛の華やかな女性も現れた。紀貫之の娘は歌人であった
常盤御前は子ども連れで・・・さらに歴史は遡り桓武天皇平安京遷都延暦の頃へと続いた。
祭神の乗る「ご鳳輦」白川女献花列、最後は弓箭組列、平安遷都の警備に当たる。小野小町
和気広虫は、慈悲深く多くの孤児を教育したという長さ約2キロの行列は、堺町御門から烏丸通に進み市役所前から河原町通を左折、三条大橋渡り神宮道で左折して大鳥居をくぐり応天門・平安神宮に到着した。
臼曇のなか、京都三大祭り、葵祭、祇園祭の最後を飾る時代祭が22日、華やかに催された。
つづく・・・

2010年10月24日日曜日

時代祭 神幸列

左京区岡崎にある平安神宮では神宮の紫宸殿前の「左近の桜」が咲いたと、朝のTVニュースがあり行ってみた。紫宸殿前の「左近の桜」
20日、時代祭具飾り立て
桜は東側の陽の射す一部がきれいに咲いていた。物珍しさに観光客たちの人たちや報道関係の方たちもシャッタ―を切っていた。胡蝶
平安神宮は1895(明治28)年、東京遷都で停滞気味だった京都を活性化するために、全国からの募金で建築された。神宮は明治以降の神社建築、国の重要文化財指定として2例目となる。平安神宮の祭神は、桓武天皇で平安遷都千百年にあわせて創建された。
22日、神宮で神事を営んだ後、祭神を移した二基の鳳輦(ほうれん)を連ねる神幸列があり10:00頃、京都御苑建礼門前行在所(あんざいしょ)に到着した。鳳輦の次を行く
鳳輦を担ぐ人たち神幸列は、神饌講社(京都料理組合)から神饌物を奉献、前列は優美な胡蝶や雅楽・狩衣姿、二基の鳳輦は先頭、孝明天皇、後は桓武天皇で建礼門前の行在所に安置された。また維新の際、山国隊とともに弓箭組も活躍したと謂われている。
正午から、メイン・イベント時代祭行列が始まる!
洛西から一時間かけて8時前、京都御苑に着いたがもう既に並んでいた。
つづき・・・

2010年10月22日金曜日

建勲神社(たけいさおじんじゃ)船岡祭

建勲神社は、北区紫野船岡山の山腹にある神社で、正しくは「建勲(たけいさお)神社」と言うが、通称「建勲(けんくん)」さんと地元の人々から親しまれている。
本殿
白木で造られた大鳥居
織田信長を祀る建勲神社は、船岡山の南東部に位置し標高45m、周囲1300m、面積は2万5千坪の優美な小高い丘にあり、天下統一を果たした信長の偉勲を称えて、1869(明治2)年、明治天皇によって創建された。境内から見る拝殿、狛犬に織田家の家紋「五瓜に唐花紋」宮司以下神職たち
1910(明治43)年、船岡山の山腹にあった社を山頂に遷祀し建勲の神号は明治天皇が下賜され、1874(明治8)年、別格官幣社指定となり、1880(明治13)年9月、建立した。奉納舞樂小学生が蝶舞を踊る
1582(天正10)年に起こった「本能寺の変」の後、豊臣秀吉が正親町(おおぎまち)天皇の勅許を受けて寺号も賜ったが竣工は中途に終り、爾来船岡山は信長の霊地とされ大切にされたという。人間50年信長が好んで舞ったという「敦盛」
建勲神社では信長の業績を後世に伝えようと、信長が初めて上洛した1568(永禄11)年10月19日を記念して、毎年この日に大祭「船岡祭」が行われる。
祭典では、本殿祭のあと拝殿において、信長が好んで舞ったという「敦盛」や「浦安舞」と「蝶舞」の舞楽奉納が披露された。史跡 船岡山 帰路は千本鞍馬口から・・・
境内から東北を望むと正面に比叡山また平安京造営の際、船岡山は“玄武”の山として北の基点となり、平安時代は大宮人の清遊の地として名高い。応仁の乱の際は西方の陣地となり、以来船岡山周辺一帯は西陣の名で呼ばれている。残念ながら、信長ゆかりの戦国の世の鉄砲や宝物は拝見できなかった。
<建勲神社>
住所:京都市北区紫野北舟岡町49 電話:075-451-0170
拝観:参拝自由
交通:市バス「建勲神社前」で下車、南へ徒歩3分

2010年10月21日木曜日

野宮神社 御禊の儀

つづく・・・大堰川岸で行列のヒロイン「斎王代」が流れに手を浸す“御禊の儀”を行うという平安絵巻のクライマックスがあり、訪れた観光客たちや写真愛好家らは盛んにシャッターを切っていた。
斎王代は田中さん22歳
神職が祝詞を挙げる正午に野宮神社を出発した行列は美しい竹林の小道を通り、JR嵯峨嵐山駅前、渡月橋を往復して、嵐山大堰川川岸に到着した。
川岸で神事が営まれた後、御禊の儀が大堰川北岸で華麗に再現された。
斎王が輿から降りて神事に向う始めに神職が人形を流す
川面には御禊の儀が行われる台座や雅楽の方たちの台座が設けられている。
野宮大神は天照皇大神のことで国歌“君が代”の斉唱から儀式が行われた。次に神職が祝詞を挙げ、斎宮代を中心に参列・関係各者方々の儀式が14:00頃に始まった。
儀式が終わった御禊の儀が再現された
神職が、始めに人形(ヒトガタ)流しを行い、続いて斎宮による「御禊の儀」が執り行われた。台座には、斎宮・騎女(うまのりめ)官人・火炬小女・戸座と、女官・文官が勢揃いする。気持ちも楽に記念撮影ホッとしたような感じ・・・
御禊の儀が終わると雅楽奉納が行われたが、フィナーレは、大堰川北岸川面の台座に、源氏物語を再現した「斎宮行列」斎王代の優雅できらびやかな十二単(ひとえ)姿を撮影するチャンスあった。観光客らは華やかな衣装の斎宮や官女らを写真撮影して王朝絵巻を楽しんでいた。
左、采女、右、女孺乳母と命婦と
日本最古の黒木の鳥居があり、小柴垣は昔のままの遺風を伝えるものである野宮神社は源氏物語にも現れ、謡曲、和歌などに謡われている由緒ある社である。斎宮行列は3時半ごろ、往時の夢を再現して約3kmを巡行して幕を閉じた。(完)