「今日もまた胸に痛みがあり、死ぬならば、ふるさとに行きて 死なむと思う。」(日記にて・・)
詩人・石川啄木は、1905(明治38)年5月、東京で処女詩集「あこがれ」を出版しそれをみやげに帰郷の途についたが、金策の必要から途中仙台に下車して土井晩翠をその居に訪ねた。
仙台には郷友らが在学中で、彼らと遊んで滞在することは10日におよんだ。その間、盛岡の借家には月末に結婚式を挙げるべく婚約者がその帰宅を待ちわびていた。しかし啄木は遂に姿を見せなかった。そこでその夜級友の媒酌で珍妙な「花婿のいない結婚式」が行われた、それがこの家である。
「この船は海に似る瞳の君のせて 白帆に紅の帆章したり」(妻 節子さんの歌)
啄木は盛岡駅を素通りして渋民に行き、ようやくにこの家の顔を見せたのは6月4日だった。ここではじめて新婚夫婦と両親、妹光子の5人が揃って家庭をもったのである。時に啄木は20歳であった。
この家で起稿し、随筆「閑天地」は連日、岩手日報の紙上をにぎわし、「我が四畳半」はよく新婚の夢あたたかな情景を描いている。ほかに「妹よ」、「明減」、「この心」の作がある。啄木一家がここに居たのは3週間ほどで、中津川のほとりに転居した。現在、盛岡市内の啄木遺跡というのは、「啄木新婚の家」だけである。
余談であるが盛岡の先人たちとして大正10年東京駅で暗殺された、原 敬は武士の子孫を捨て平民を名乗った。新渡戸稲造は武士道。さらに米内光政はそ3人目の総理大臣、米・英国と反対を続けた太平洋戦争。金田一京助は少数民族のアイヌ語を研究したという。
また啄木は鳥から付けられた名前、啄木鳥(きつつき)の名のように一ヶ所には居りませんね。