2013年8月30日金曜日

盛岡 啄木新婚の家

県北バスで渋谷の啄木記念館や懐かしい小学校校舎を見たが、平成の合併で盛岡市玉山区になっていた。市内に戻って啄木が住いしたという家を見た。
「今日もまた胸に痛みがあり、死ぬならば、ふるさとに行きて 死なむと思う。」日記にて・・)
啄木と節子が暮らした「四畳半」の部屋。
100円で市内循環バスが走っている。(300円乗り放題)詩人・石川啄木は、1905(明治38)年5月、東京で処女詩集「あこがれ」を出版しそれをみやげに帰郷の途についたが、金策の必要から途中仙台に下車して土井晩翠をその居に訪ねた。
床の間には啄木の歌と写真が添えていた。仙台には郷友らが在学中で、彼らと遊んで滞在することは10日におよんだ。その間、盛岡の借家には月末に結婚式を挙げるべく婚約者がその帰宅を待ちわびていた。しかし啄木は遂に姿を見せなかった。そこでその夜級友の媒酌で珍妙な「花婿のいない結婚式」が行われた、それがこの家である。
「この船は海に似る瞳の君のせて 白帆に紅の帆章したり」妻 節子さんの歌)
明治37年秋に婚約時代に撮影された。
明治23年ごろの盛岡駅、東北鉄道が盛岡まで開通した。










啄木は盛岡駅を素通りして渋民に行き、ようやくにこの家の顔を見せたのは6月4日だった。ここではじめて新婚夫婦と両親、妹光子の5人が揃って家庭をもったのである。時に啄木は20歳であった。
節子さんが持ってきた琴。
10畳ある座敷で珍妙な「花婿のいない結婚式」が行われた。この家で起稿し、随筆「閑天地」は連日、岩手日報の紙上をにぎわし、「我が四畳半」はよく新婚の夢あたたかな情景を描いている。ほかに「妹よ」、「明減」、「この心」の作がある。啄木一家がここに居たのは3週間ほどで、中津川のほとりに転居した。
「啄木新婚の家」の見取り図。
こちらが側が、「玄関」だった!現在、盛岡市内の啄木遺跡というのは、「啄木新婚の家」だけである。
橋の「擬宝珠(ぎぼし)」は、昭和20年、国の重要美術品に指定されている。
余談であるが盛岡の先人たちとして大正10年東京駅で暗殺された、原 敬は武士の子孫を捨て平民を名乗った。新渡戸稲造は武士道。さらに米内光政はそ3人目の総理大臣、米・英国と反対を続けた太平洋戦争。金田一京助は少数民族のアイヌ語を研究したという。
春満開の石割り桜、大正12年国の天然記念物に指定された。
石割桜、藩の屋敷跡の庭石の割れ目に桜の種が飛んで目を出した。また啄木は鳥から付けられた名前、啄木鳥(きつつき)の名のように一ヶ所には居りませんね。

2013年8月29日木曜日

石川啄木 渋谷小学校旧校舎を訪ねて

11日、銀河鉄道JR盛岡市に出て、沼宮内(ぬまくない)行きの県北バスで石川啄木記念館と渋谷尋常小学校旧校舎を訪問した。7年前にも一度来たことがある。
いわて銀河鉄道で盛岡に行った。
サラサラと水が流れる盛岡駅前。盛岡市指定文化財になっている旧渋谷尋常小学校は、1888(明治17)年、旧渋谷村の愛宕神社の脇に村民の寄付により650円で建設された。当時の校舎は木造二階建てで、一階は職員入口と廊下、教室があり、二階は廊下をはさんで三教室があった。
明治時代後半の校舎。
盛岡市指定文化財になっている旧渋谷尋常小学校。約50年間使用され後、地区の公民館として使われ、1967(昭和45)年、老巧化により取り壊されることとなったが、啄木の母校であり、代用教員時代に教鞭をとったこともあるゆかりの校舎であり記念館敷地内に移転保存された。
一階のオルガンがある教室。
一階の女子囲炉裏がある校舎。現在の建物は、2度の移転や改修がおこなわれ、柾屋根造り、連子格子、囲炉裏のある溜まり場など明治前期の面影が残されており、現存する学校校舎として県内では最も古い建物の一つである。
二階の教室。
職員室。隣にある建物は、啄木が明治39年から同40年、代用教員の教壇に立った頃に生活していた借家である。生徒の指導にあたる一方、この二階で書いた小説には、有名な「雲は天才である」や「面影」などがある。 「ふるさとの 山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな(一握の砂)
卓袱台と囲炉裏がある質素な家。
啄木はこの二階で生徒の指導にあたる一方、執筆活動を続けた。(借家を提供した斉藤家)啄木は僧侶であり歌人であった父の姿を見て自然豊かな環境で育った。盛岡中学校ではことばの持つ魅力に引かれていった。「不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心一握の砂
旧校舎、2階の廊下。
代用教員も一年半ばで退職、故郷渋民村を去って北への漂泊、新聞社を函館、札幌、小樽、釧路と転任した「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる(一握の砂創作生活に賭けて北海道から単身上京、執筆活動を続けながら新聞社に勤めた。だが啄木は病魔に冒され26歳の若さで短い生涯を閉じた「やわらかに 柳あをめる 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに」
代用教員も一年半ばで退職、故郷渋民村を去って北への漂泊、新聞社を函館、札幌、小樽、釧路と転任した。石川啄木記念館。なお借家を提供した斉藤家は江戸時代末期、奥州道中の南側に建てられた町家で盛岡指定文化財になっている。盛岡市内の「啄木新婚の家」を送る。
<石川啄木記念館>
入  館  券:450円(障害者割引なし)
県北バス:沼宮内(ぬまくない)行き2番
所要時間:片道40分 
料        金:560円(障害者280円)

2013年8月28日水曜日

世界遺産 平泉 毛越寺(もうつうじ)

平泉の中尊寺ともう一つ、特別史跡の臨池伽藍跡と浄土庭園の毛越寺を覗いてみた。平泉の中尊寺、毛越寺、松島の瑞巌寺、山形の山寺・立石寺はともに慈覚大師円仁(じかくたいしえんじん)の開基という。
特別史跡の臨池伽藍跡と浄土庭園の毛越寺の表門。
平成元年に立て替えられた本堂。松尾芭蕉が「奥の細道」でみちのく巡礼した寺でもある。悲運の武将 源義経公をしのび、「夏草や 兵どもが 夢の跡」句を詠んだ。前庭には大泉が池を中心とする浄土庭園が配されていて特別名勝である。
ハス一輪。
開山堂。毛越寺一山の本坊は、本尊薬師如来(平安時代作)脇士日光・月光両菩薩を安置している。ハス池には美しい花が咲いていた。この季節、萩の花がちらほら咲いていた。
金堂円隆寺跡。
二代基衡公が建立し三代秀衡公が完成させた嘉祥寺。大泉ヶ池の周辺の広大な境内には、開山堂や二代基衡公が建立し三代秀衡公が完成させた嘉祥寺、講堂跡があり、金堂円隆寺は毛越寺の中心的な堂であったといわれている。
キキョウとオミナエシとハギが咲く鑓水。
パンフから5月第4日曜日「曲水の宴」が行われる。その美しい流れとせせらぎは浄土庭園に風雅な趣を添えており、鑓水は「曲水の宴」の舞台となっている。
本尊は、宝冠阿弥陀如来、奥殿には秘仏・摩多羅神を祀っている。
現在の常行堂は1732(享保17)年に再建されたものである。常行堂の本尊は、宝冠阿弥陀如来、奥殿には秘仏・摩多羅神を祀っている。
大震災の影響で約8度傾いたが修復で元に戻った。
塔山を背景に仏堂を前に造築された浄土庭園。大泉が池は塔山を背景に仏堂を前に造築された浄土庭園で、池には南大門から中島、円通寺へと続く二つの橋が架けられていたという。
中島、円通寺へと続く二つの橋が架けられていた。
中島から円通寺へ・・・。池は海を表しなぎさには州浜、築山など海浜の趣向が凝らされていた。東日本大震災の影響で約8度傾いたが修復で元に戻ったという。850(嘉祥3)年、慈覚大師がこの地に一宇の堂を建立し、嘉祥寺と号したのが毛越寺の起こりである。
毛越寺のマップ。
秋、萩のシーズンが到来する。親友に感謝、中尊寺金色堂や毛越寺をドライブしたがラ・フランス温泉で湯に浸かり身も心もリフレッシュした。

2013年8月27日火曜日

世界遺産 平泉・中尊寺金色堂

10日、岩手県平泉の中尊寺金色堂に行った、仙台の七夕や山形の花笠おどりなど、旅人になったような気分で故郷に帰省し直ぐ親友のクラスメートにコールしたら快く引き受けてくれた。持つべき者は友と感謝した。
800年の眠りから目を覚まし一輪の、花を咲かせた。11年ぶりに世界遺産 平泉・中尊寺金色堂に行った。高僧・慈覚大師円仁(じかくだいし えんにん)により850(嘉祥3)年に開基した天台宗の寺院で平安時代後期、建立の仏堂である。建立当時は関山弘台寿院と号したが859 (貞観元) 年に中尊寺と改めた。
中尊寺は建立当時、関山弘台寿院と号した。
初代清衡公、左の壇に二代基衡公、右は三代秀衡公のご遺体と四代泰衡公の首級が納められている。奥州・初代藤原清衡が1124(天治元)年に建立したもので、京都宇治・平等院鳳凰堂と共に平安時代の浄土教建築の代表例であり、戦いで亡くなった人々の霊をなぐさめるため、仏国土を建設するため中尊寺一山の造営に着手したという。
奥の細道の松尾芭蕉翁の銅像。
金色堂覆堂(おおいどう)重要文化財。ご本尊は阿弥陀如来、脇時に観音・勢至菩薩、六体の地蔵菩薩と持国天・増長天が本尊を取り巻いている。堂全体を金箔で覆い、皆金色の極楽浄土を現世に現している。
内陣は螺鈿細工・蒔絵などの漆工芸や精緻(せいじ)な彫金で荘厳され、平安仏教美術の最高峰をなしている。
内陣は螺鈿細工・蒔絵などの漆工芸や精緻(せいじ)な彫金で荘厳され、平安仏教美術の最高峰をなしている。
中央の須弥壇の内に初代清衡公、左の壇に二代基衡公、右は三代秀衡公のご遺体と四代泰衡公の首級が納められている。 本堂は明治42年の再建で堂内には約1200年灯り続ける「不滅の法燈」が、総本山の比叡山延暦寺より分火され今も大切に護持している。
祓いの輪、東北でも「茅の輪」があった!
慈覚大師が自ら十一面観音を作って中尊寺の鎮守白山権現を号した。金色堂は、中尊寺山内のやや西寄りに東を正面として建っている。正面、側面共に柱間が3間で、平面の1辺が5.5メートルの小型の仏堂で、覆堂(おおいどう)内にあり、ガラスケースに納められて外気と遮断されていた。
絵馬と扇。
これを書かれた筆者は、能楽師なら一生に一度、ここで舞うことを望まれるだろう。遠い記憶なのだが昭和30年ごろ、小学校の遠足で来たことがあった。しかいし体調が悪く残念ながらバスから一歩も出られなかったのである。 いつの間にか年月は流れて障害者になってしまった。帰省の折、クラスメートに告げるとお易い御用と実行、48年ぶりに実現した。あれから11年、 平泉・中尊寺金色堂や毛越寺も近年、世界遺産になり友の計らいで格別な思いで金襴豪華な “金色堂”を見学した。
梵鐘。
弁才天堂。讃衡蔵(さんこうぞう)は、中尊寺に伝わる文化財・宝物を永く後世に伝える宝物館として2000(平成12)年に建設された。館名の讃衡蔵とは「奥州藤原三代(清衡・基衡・秀衡の衡)の偉業を讃える宝蔵」という意味で3000点以上の国宝、重要文化財が収蔵されている。
館名の讃衡蔵とは「奥州藤原三代(清衡・基衡・秀衡の衡)の偉業を讃える宝蔵」金色堂 上下四壁は皆金色なりの言葉を始め、収蔵する品々は文化財の宝庫で中尊寺創建当初の唯一の遺構は、復興を目指す被災地の人々の更なる励みになるだろう。 広大な敷地に平安時代の栄枯の夢か極楽浄土とされる藤原三代が眠っている。毛越寺に行く・・・