大歳神社は、善峯寺や十輪寺に向かう道すがら西京区大原野灰方にあって、大原野小学校の南約300mのところにある。
ジェーン台風(1950)で折れた神木の杉が神楽殿を損壊し撤去、63年ぶりで再建復活した。真新しい神楽殿を一目見ようとお参りした。
創建は718 (養老2)年と伝えられる歴史ある神社で乙訓十九座の一つと伝えられている。境内は柏の森(かやのもり)と称され、社を“柏の社”とも呼ばれていたという。
農耕生産や厄除、祈雨にも霊験ありと知られ当地の守護神であり、大歳神を祭神とし祀っている。
また相殿に石作神と豊玉姫が祀られている。
石作神は代々石棺を造っていた豪族の租神であり、いつしか合祀されたとされている。垂仁天皇の后、日葉昨姫命おかくれの時、石棺を献上し、石作大連公の姓も賜ったという。
石作神は昭和49年6月愛知県岡崎市に建立の石工団地神社に分霊したという。
氏子祭(10/21)では、江戸時代より金剛流家元による舞が奉納されていて、ヒノキを使った新しい神楽殿は能楽「翁」が奉納された。残念ながら生憎の雨模様で参詣出来なかった。
拝観は自由で駐車場もあり1995(平成7)年に京都市の史蹟に指定されている。
<大歳神社>
住所:京都府京都市西京区大原野灰方町575
電話:075-331-0627
拝観:自由
交通:JRJR向日町駅、阪急バス「灰方」下車、徒歩8分
阪急電鉄桂駅、市バス臨西2号系統、「大原野小学校」下車、10分
2013年10月27日日曜日
祇園甲部 襟替え
25日台風27号の雨の中、舞妓さんの「襟替え(えりかえ)」があるとの情報を耳にしたので、11:00頃祇園・富永町に行ってみたが、小止みなく降りしきる秋雨で延期となり翌日となった。
舞妓さんは祇園花街で、だらりの帯や華やかな衣装で唄や踊り三味線などの芸事を披露するが、15,6歳ごろから芸妓さんの見習い修行段階の人をいう。
修行一年目のとき上唇は口紅ぬらず、襟は可愛い赤い襟とする仕来たりがあるという。ぽっくり「おこぼ(赤い鼻緒)」は、歩くと鈴が付けられている。襟足はお正月は三本にするが普段は二本である。
着物の襟をこれまでの赤襟から白襟に変えることから『襟替え』といわれるもので、二十歳になって舞妓を卒業、芸妓(げいこ)さんになる儀式である。
舞妓さんといっても甲部、祇園東や宮川町など先斗町や上七軒を合わせれば五花街になり広範囲である。
この日は寒気の影響で肌寒かったが正午過ぎ、置屋「中支志」で襟替えが行われ、主役、小芳(こよし)さんは満面笑みを浮かべて男衆(おとこし)さんと共に姿を魅せた。置屋「中支志」で2時間くらい待った3,40人なる写真愛好家が一斉にシャッターを切った。
いよいよこれから各お茶屋さんやお店を男衆さんと一緒に回り「今後ともご贔屓におたのもうします」と挨拶した。
となりに居った方が言うことには22日、舞妓卒業日、髪型を先笄していたといって言っていた。主役、小芳さんは山科の出身で踊りや作法の上達も早かったという。
襟替えの時期は20歳前後の場合が多く、男衆さんが『襟替えのご挨拶にまいりました』とお茶屋の中に入ってからいう、「中支志」の小芳さんが「どうぞご贔屓に・・・」と挨拶、女将が「おめでとうさんどす、おきばりやす」の声が聞えてきた。
新門前通の師匠宅へも挨拶、新橋通・辰巳大明神にお参りしプロ写真家が白川橋で「襟替え」の記念撮影をとった。
進々堂は舞妓さん御用達の喫茶店、御主人と記念撮影、一力亭に挨拶に向かった。今日は土曜日、華やかな襟替え、一力亭から出てきたら一般の舞妓フアンに囲まれてしまった。これから元弥栄中の前を通り東山安井のマンションへも来て挨拶をし、八坂女紅場学園、喫茶店も回った。
花見小路通へ出て何軒かお茶屋さんに挨拶に回り、ウィンズ京都(場外馬券場)を西へ、緑豊かなお茶屋さんがあり時計見ると14:30、祇園界隈にたくさんご贔屓がある「中ぎ志」小芳さん、「襟替え」で挨拶して回った。(10/26写真撮影)
舞妓さんは祇園花街で、だらりの帯や華やかな衣装で唄や踊り三味線などの芸事を披露するが、15,6歳ごろから芸妓さんの見習い修行段階の人をいう。
修行一年目のとき上唇は口紅ぬらず、襟は可愛い赤い襟とする仕来たりがあるという。ぽっくり「おこぼ(赤い鼻緒)」は、歩くと鈴が付けられている。襟足はお正月は三本にするが普段は二本である。
着物の襟をこれまでの赤襟から白襟に変えることから『襟替え』といわれるもので、二十歳になって舞妓を卒業、芸妓(げいこ)さんになる儀式である。
舞妓さんといっても甲部、祇園東や宮川町など先斗町や上七軒を合わせれば五花街になり広範囲である。
この日は寒気の影響で肌寒かったが正午過ぎ、置屋「中支志」で襟替えが行われ、主役、小芳(こよし)さんは満面笑みを浮かべて男衆(おとこし)さんと共に姿を魅せた。置屋「中支志」で2時間くらい待った3,40人なる写真愛好家が一斉にシャッターを切った。
いよいよこれから各お茶屋さんやお店を男衆さんと一緒に回り「今後ともご贔屓におたのもうします」と挨拶した。
となりに居った方が言うことには22日、舞妓卒業日、髪型を先笄していたといって言っていた。主役、小芳さんは山科の出身で踊りや作法の上達も早かったという。
襟替えの時期は20歳前後の場合が多く、男衆さんが『襟替えのご挨拶にまいりました』とお茶屋の中に入ってからいう、「中支志」の小芳さんが「どうぞご贔屓に・・・」と挨拶、女将が「おめでとうさんどす、おきばりやす」の声が聞えてきた。
新門前通の師匠宅へも挨拶、新橋通・辰巳大明神にお参りしプロ写真家が白川橋で「襟替え」の記念撮影をとった。
進々堂は舞妓さん御用達の喫茶店、御主人と記念撮影、一力亭に挨拶に向かった。今日は土曜日、華やかな襟替え、一力亭から出てきたら一般の舞妓フアンに囲まれてしまった。これから元弥栄中の前を通り東山安井のマンションへも来て挨拶をし、八坂女紅場学園、喫茶店も回った。
花見小路通へ出て何軒かお茶屋さんに挨拶に回り、ウィンズ京都(場外馬券場)を西へ、緑豊かなお茶屋さんがあり時計見ると14:30、祇園界隈にたくさんご贔屓がある「中ぎ志」小芳さん、「襟替え」で挨拶して回った。(10/26写真撮影)
2013年10月24日木曜日
時代祭2013 その2
時代祭は平安遷都1100年を記念して1895(明治28)年に始まったとされる。創建は119年と比較的新しく、京都の街起しの集大成とし平安京を造営した桓武天皇を祭神として神宮が建立された。過去の戦争や災害などで10回の中止の年もあったがことしで109回目を迎えた。
洛中風俗列では風流踊りは、江戸時代以降、盆踊りの原型にもなっているという。
京の町衆によって盛んになったという風流踊りは風流傘を中心に内側に囃子方、「中踊り」と「側踊り」になっている。
楠公上洛列では後醍醐天皇が配流先の隠岐からの還幸にあたって、楠木正茂一族郎党を率いて兵庫に出迎え上洛した。天皇から菊紋を下賜されたが、畏れ多いとして菊水紋にしたという。 衣冠装束の甲冑(かっちゅう)姿で堂々と歩いた。
中世婦人列では、洛北大原から京の街へと薪や炭を頭にのせた「大原女」は室町末期の姿を再現しておる。また桂から「桂女」も鮎や飴を売る伝統的な里の風習を今に伝えている。
淀君は浅井長政の長女で後の豊太閤の側室で秀頼の生母である。
藤原為家の室で出家姿をしている。さらに静御前も義経の愛妾で白拍子であり、悲劇のヒロインである。
鎌倉時代、馬上から的を射る流鏑馬(やぶさめ)は、平安時代から武者のたしなみとして盛んに行われていた。
藤原時代、源氏の武将・木曽義仲の寵愛受けた「巴御前」は色白で髪は長く、容姿美貌で、愛馬に跨り戦場を駆け、太刀・長刀を手に勇壮な鎧姿を再現した。
建礼門院の雑仕女の横笛、常盤御前は二児を連れている。
清原元輔の娘、清少納言は一条皇后に仕えていた、十二単姿の女官である。 慈悲深い和気広虫は多くの孤児を養育、百済王明信など紀貫之の娘や小野小町など歩くのが早すぎてシャッターが押せなかった!!
歴史は遡り桓武天皇、延暦時代へと続いたが、万民が安心して暮らせるように「平安楽土」の実現への強い思いが込められている。
極楽浄土に住む美しい鳥の「迦陵頻迦(かりょうびんか)」と「胡蝶」の前列、祭神の乗る二つの「ご鳳輦」が御所から平安神宮にやってきた。 白川女献花列、最後は弓箭組列、平安遷都の警備に当たった。
時代風俗行列巡行は人員約2000名、牛馬70頭で烏丸御池通から河原町の繁華街を通過し平安神宮に到着した。 巡行は約4,5kmの道のりで華やかに優雅に都大路を練り歩いた。
豪華な歴史絵巻が彩る大行列は8つの時代に構成、京都人の心粋と誇りが織り込まれていて“風俗史の時代行列”京都の歴史を知る上でも華やかに大切に盛り上げる伝統祭事である。
今年の人出は約5万2千人であり、大勢の市民や観光客は広大な大パノラマに魅了した。(完)10/22写真撮影
洛中風俗列では風流踊りは、江戸時代以降、盆踊りの原型にもなっているという。
京の町衆によって盛んになったという風流踊りは風流傘を中心に内側に囃子方、「中踊り」と「側踊り」になっている。
楠公上洛列では後醍醐天皇が配流先の隠岐からの還幸にあたって、楠木正茂一族郎党を率いて兵庫に出迎え上洛した。天皇から菊紋を下賜されたが、畏れ多いとして菊水紋にしたという。 衣冠装束の甲冑(かっちゅう)姿で堂々と歩いた。
中世婦人列では、洛北大原から京の街へと薪や炭を頭にのせた「大原女」は室町末期の姿を再現しておる。また桂から「桂女」も鮎や飴を売る伝統的な里の風習を今に伝えている。
淀君は浅井長政の長女で後の豊太閤の側室で秀頼の生母である。
藤原為家の室で出家姿をしている。さらに静御前も義経の愛妾で白拍子であり、悲劇のヒロインである。
鎌倉時代、馬上から的を射る流鏑馬(やぶさめ)は、平安時代から武者のたしなみとして盛んに行われていた。
藤原時代、源氏の武将・木曽義仲の寵愛受けた「巴御前」は色白で髪は長く、容姿美貌で、愛馬に跨り戦場を駆け、太刀・長刀を手に勇壮な鎧姿を再現した。
建礼門院の雑仕女の横笛、常盤御前は二児を連れている。
清原元輔の娘、清少納言は一条皇后に仕えていた、十二単姿の女官である。 慈悲深い和気広虫は多くの孤児を養育、百済王明信など紀貫之の娘や小野小町など歩くのが早すぎてシャッターが押せなかった!!
歴史は遡り桓武天皇、延暦時代へと続いたが、万民が安心して暮らせるように「平安楽土」の実現への強い思いが込められている。
極楽浄土に住む美しい鳥の「迦陵頻迦(かりょうびんか)」と「胡蝶」の前列、祭神の乗る二つの「ご鳳輦」が御所から平安神宮にやってきた。 白川女献花列、最後は弓箭組列、平安遷都の警備に当たった。
時代風俗行列巡行は人員約2000名、牛馬70頭で烏丸御池通から河原町の繁華街を通過し平安神宮に到着した。 巡行は約4,5kmの道のりで華やかに優雅に都大路を練り歩いた。
豪華な歴史絵巻が彩る大行列は8つの時代に構成、京都人の心粋と誇りが織り込まれていて“風俗史の時代行列”京都の歴史を知る上でも華やかに大切に盛り上げる伝統祭事である。
今年の人出は約5万2千人であり、大勢の市民や観光客は広大な大パノラマに魅了した。(完)10/22写真撮影
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