2010年5月31日月曜日

仁和寺 旧御室御所

仁和寺のある双ケ丘の辺り一帯は、御室(おむろ)と呼ばれていて、遅咲きの“御室の桜”が有名である。創建は平安時代で、仁和寺は真言宗御室派総本山の寺院で山号を大内山という。宮殿から仏堂への用途変更に伴い、屋根を檜皮葺きから瓦葺きに変えるなど改造が行われている二王門は左右に阿吽の二王を安置している
皇室とゆかりの深い寺(門跡寺院)で、出家後、宇多法皇がこの寺を住居としたことから、「御室御所」と呼ばれるようになった。休憩所の遍照堂
宇多法皇がこの寺を住居としたことから、「御室御所」と呼ばれるようになった886(仁和2)年、58代光孝天皇が西山御願寺として着工されたが寺の完成を見ずに翌年崩御したため、888(仁和4)年、59代宇多天皇が遺志を引き継ぎ落成し、「西山御願寺」になり、やがて年号をとって仁和寺となった。本尊は阿弥陀如来。勅使門と二王門
旧御室御所(御殿)の玄関宇多天皇は退位後、出家され日本最初の法皇として当寺で御室を営まれ以後、30余年のあいだ、真言密教の修行に励まれている。白書院内部
白書院から宸殿をみる仁和寺伽藍の西南に「御室」と呼ばれる僧坊を建てて住んだため、当寺には「御室(仁和寺)御所」の別称がある。また「御室」の旧地には現在、「仁和寺御殿」と称される御所風の建築群が建っている。御所跡地が国の史跡に指定されている。
以来、明治維新の第三十世純仁法親王(小松宮)に至るまで代々皇子、皇孫が仁和寺の門跡を継承されたことで、“御室御所”と呼ばれ親しまれている。 宸殿内部
宸殿壮大な二王門は、江戸時代に立てられたのもで、徳川家光の寄進で左右に金剛力士が安置されていることから二王門という。左手が旧御室御所の御殿で、1887(明治20)年の火災で焼失、現在の建物は1913 (大正2)年に亀岡末吉の設計により再建されたものだが、庭園とともにかつての宮殿風の雰囲気をただよわせている。御殿へ入り、まず白書院から白砂が敷き詰められた南庭を眺める。中門の中の不動明王
九所明神回廊をつたって宸殿へ・・・そこから見える池を配した北庭には新緑が美しく、五重塔を背景にした江戸末期に光格天皇の好みで建てられた草庵風の茶席「腰をかがめずに入れる」ように鴨居の高い貴人口が設けられているという茶室「飛濤亭」(重文)。さらに歴代門跡の霊を祀る霊明殿、そして木々に隠れて見難いが尾形光琳の屋敷から移されたという茶室「遼廓亭」(非公開・重文)がある。宸殿北の庭
霊明殿、全高10,7cm平安後期の作で円勢・長円、国宝である参道を北へ進むと中門、有名な御室の桜苑で右手が五重塔(重文)で左手は観音堂。正面は金堂、現在の金堂(国宝)は1613(慶長18)年に建立された旧皇居の正殿・紫宸殿を1624~1644(寛永年間)年に移築・改造したもので、近世の寝殿造遺構として大切である。宮殿から仏堂への用途変更に伴い、屋根を檜皮葺きから瓦葺きに変えるなどの改造が行われているが、宮殿建築の雰囲気をよく残している。金堂は京都御所の紫宸殿が移されている。右手に経堂でさらに奥は九所明神社本殿、左手に朱色に塗られた鐘楼、その左に「御影堂(重要文化財)」旧皇居の清涼殿の用材を用いて建設したもので弘法大師を祀る。総高は36.18m1664年の建立である
中門さまざまな寺院が「門跡」と呼ばれ門跡寺院と呼ばれているが、宇多天皇が出家入寺したこの仁和寺が最初である。その後、寺格を意味するようになり比叡山三門跡、三井寺三門跡と呼ばれる寺々がそれである。明治維新以降は、仁和寺の門跡に皇族もなくなり、「旧御室御所」と称するようになった。経堂
弘法大師を奉る御影堂春の桜と秋の紅葉の名所としても多くの参拝者でにぎわう。
なお、1994 (平成6)年にユネスコの世界文化遺産に登録されている。
<仁和寺>
住所:京都市右京区御室大内33 電話:075-461-1155
拝観時間:9:00~16:30
拝観料:500円 ・障害者無料
交通:京福電鉄北野線「御室」駅下車徒歩10分
   市バス 御室仁和寺前 下車徒歩1分


2010年5月30日日曜日

福王子神社

福王子神社は、右京区宇多野にある神社で第58代光孝天皇の皇后班子(はんし)女王を祭神としてお祀りしている。本殿は一間社春日造・末社(夫荒社)本殿・拝殿・鳥居、燈籠一式が国の重要文化財に指定になったのは類が無い
班子女王は平安京を造営された桓武天皇の皇孫にあたり、また888(仁和4)年、仁和寺を創建された宇多天皇の母君でもある。
1100年前、光孝天皇が仁和寺建立に着手され完成を見ず亡くなられたのち、その意志を継いで第59代宇多天皇が母君の班子女王とともに仁和寺を造営された。 拝殿は徳川時代初期の入母屋造
本殿と拝殿の屋根は木賊葺(とくさぶき)雨に強い、さわらの木を何枚も重ねて使用するという!900(昌泰3)年に班子女王が亡くなられ頭陀寺に葬られたが、その陵墓がこの辺であったところから、この地に班子女王をまつる福王子神社が造営されたと伝えられている。その後、平安時代から鎌倉時代初期、歴代の仁和寺法親王から厚い御崇敬を受け、仁和寺の鎮守神として奉られてきた。また、班子女王は気さくで、庶民に親しまれた産土神として崇敬された。
しかし、1468年応仁の乱で社殿は全て焼失した。現在の社殿は1644(寛永21)年江戸初期、徳川三代将軍家光公の寄進を受け、仁和寺の宮、覚深法親王により五重塔や仁王門・堂伽藍とともに再建された。御室仁和寺の守護神としてその歴史は古く、福王神・福王子宮とも呼ばれていたという。本物は京都歴史資料館だがこちらも有名な方の逸材である
左の狛犬は銀同じ境内にある夫荒社(ふこうしゃ)は延喜年間、丹波の氷室から御所へ氷を運ぶ役夫(えきふ)が行き倒れ、その霊を鎮めるため祀った社。また、本殿と夫荒社との間に「さざれ石」が祀ってある。これは“山越”にある「さざれ石」の一つを移してきたものであると宮司から伺った。
君が代にうたわれているさざれ石は山越えの石山から移してきた下方が開いて蛙の股のような形を建築用語で「蟇股」という。ふくろうと椿1973(昭和48)年、福王子神社は本殿・拝殿・鳥居、燈籠一式が国の重要文化財に指定になり建造物一式全てが他に類は無く、貴重な文化遺産となった。
また、社殿は建立以来、約360年が経ち、2000(平成12)年、班子女王千百年特別大祭に当たり、本殿・拝殿の屋根は「木賊葺(とくさぶき)椹の木・長さ39cm厚さ6mm・幅9~12cm」の修復工事を行った。鷺と雲
すずめと竹など、時代が移るにつれて装飾用となったものが多い木賊葺は主に水に強い椹の木を使い屋根に葺くが、江戸時代の修理記録は全く残っていなく、「仁和寺諸堂社(しょどうしゃ)御修復仕様入札帳」という300年前の資料があり救われたという。福王子神社の修理は360年前と同じ工法で1100年祭を前に行われ当時の姿が今によみがえった。
2002(平成14)年には、本殿の丹塗り「蟇股(かえるまた)」の修復も行われた。海馬と波
福王子神社は仁和寺の守護神であるとともに、庶民に親しまれた班子女王の遺徳を偲び、地元の御室村、福王子村、鳴滝村、中野村(現在では常磐西部)、常盤村、山越村を含む旧六ケ村、西は広沢の池、南は山陰線、東は嵐電妙心寺駅附近を地域の産土神として今日に至っている。
<福王子神社>
住所:京都市右京区宇多野福王子町58 電話:075-463-0937
拝観:自由
交通:嵐電宇多野駅より徒歩約5分
   市バス福王子停留所よりすぐ

2010年5月21日金曜日

御霊祭 巡行

つづき・・・18日、京都で最も古い祭礼といわれる上京区の上御霊神社の御霊祭が行われ、時代装束に身を包んだ氏子や牛車や神輿、剣鉾(ほこ)など巡行が行われた。 京都御所、朔平門前で今年も京都御所で神輿を参内した
昨年から140年ぶりに京都御所巡行が復活して三基の神輿が参内した。
江戸時代には御所内を神輿が巡行していたが、東京への遷都後に途絶えていた。
御霊祭は863(貞観5)年5月の悪霊退散の御霊会(ごりょうえ)が起源とされている。今出川口の神輿
東京への遷都後、昨年から復活した思いがけない死を迎えた者の御霊(ごりょう)による祟りを防ぐための、鎮魂のための儀礼であり、“神泉苑”において御霊会が行われてい枡形通での神輿る。
神輿の担ぎ手は門前に進む平安時代、不慮の死を遂げた者の死霊(しりょう)=怨霊(おんりょう)へと意味が転化し、天変地異はすべて御霊の所業と考えられ、御霊に対する儀礼が出来上がり、この上御霊神社で御霊祭は行っている。威勢よく、神輿を高く持ち上げる!
童女と牛車午前11時30分、拝殿で渡御の神事が厳かに営まれたのち、巡行は午後1時、同神社の南門先頭に触太鼓が出発した。巡行の行列は葵祭に匹敵する500名前後で氏子町を練り歩く。赤緑二つの獅子舞、剣鉾(龍鉾・蓬莱鉾・鷹羽鉾)3つ鉾、御剣行列・八乙女行列が続く。 アルバイト学生たち
商店街の中を行くお稚児さん神主のあと御神宝行列・稚児行列・童子あと牛車、若武者行列・御霊太鼓。ホイトッ!ホイトッ!の威勢の良い掛け声が街に響き渡って聞こえてくる!三基の神輿が(小山・今出川口・末広)続いて氏子地域を元気いっぱいに練り歩いた。年々、高齢者になって参加する人も少なくなり今年は剣鉾三基
寺町寺之内付近で・・・昨年から復活した、京都御所内を巡行する御所巡行は午後3時40分ごろ今出川御門から入った。この日特別に開かれた御所北門の朔平門(さくへいもん)前では勇壮な神輿の差し上げが行われ、辺りは熱気にあふれていた。
大勢の人々が見守るなか、神輿の担ぎ手たちが威勢のよい掛け声とともに今出川御門より3基の神輿が参内、担ぎ手たちの掛け声が響くなか、神輿を上下に揺らすと観客から歓声があがった。速いテンポでエライヤッチァ、エライヤッチァと言う末広神輿
御所をあとに、今出川通りを西へところで、小山郷、今出川口の二基の神輿はホイットー、ホイットーと言う掛け声だが、一基、末広神輿は、速いテンポでエライヤッチァ、エライヤッチァと言う!
左右三ツづつある大きな鈴が自慢の神輿で本殿の形をした刈又の形式、さらに、拝殿で暴れるのを防ぎ黒棒に縄を巻く、その縄を肩にかけ神輿を引き上げて全国でも珍しい祭で担ぎ方といわれている。神輿は今出川烏丸交差点で差し上げをして西へ向った
冷泉家では担ぎ手にお茶の接待をしている御霊祭は毎年5月18日に行われるために、各氏子町の町衆や参加の子供たちは臨時で学校が休業になるという!(完)

2010年5月20日木曜日

上御霊神社 御霊祭

上御霊神社は地下鉄鞍馬口駅を南出口下る東へ300m鳥居・西門がある。上御霊神社は俗称で、正式名は「御霊神社」御霊(ごりょう)さんと呼ばれ親しまれている。拝殿から降ろされる末広社の神輿
本殿と小栗栖宮司上京区東部の氏神様で平安京の守り神として崇道(すどう)天皇を祀ったのが始まりとされ、八柱を祀っている。平安時代の御霊社の一つで、怨霊を鎮めるために桓武天皇の勅願により造られた。拝殿では神職の神事が行われた
祭神は崇道天皇はじめ、13柱の神霊を祀る784(延暦3)年、桓武天皇は長岡へ都を遷した。ここで事件が起こった。
藤原種継暗殺事件である。当時、長岡京造宮司であった種継は早良親王と敵対しており、親王が暗殺事作の首謀者と見なされたのだ。
早良親王は、桓武天皇の同母弟である。拝殿から降ろすのにかなり神経がいる!
神輿は詳細な彫物が施してある乙訓寺に監禁され、淡路へ配流されることになった親王は無実であることを訴え、自ら食を断った。そして10日余りが経ち、宮内卿、石川恒守らが淡路へ移送する途中、高瀬橋頭で絶命した。恒守は、そのまま早良親王の遺体を淡路へ運んで葬った。四神相応、白虎
本殿と拝殿は身動きが取れない異変が連続して起こったのは、それからである。桓武天皇の妻の藤原旅子が死に、ついで母の高野新笠、皇后藤原乙牟漏が次々と他界。さらに皇太子安殿の病気が長びいているのを占ったところ、皇位を廃された早良親王の祟りとでた。
朝廷はさっそく諸陵頭調使王(しょりょうかみずしおう)らを淡路国へ遺わし、奉謝を行った。
連続する天変地異、天皇の周辺に連続して起こる近親者の死。早良祟る、の思いは桓武天皇をはじめ為政者たち共通の思いであった。800(延暦19)年7月、桓武天皇はついに早良親王に「崇道天皇」の尊号を贈った。-『学研 天皇の本』-
三基の神輿は拝殿から担ぎ手で準備される五穀豊穣を神輿に託して
これが上御霊神社の始まりとされる。
御霊とは、政争に巻き込まれて非業の死をとげた人の霊のことであり、当時はしばしば悪疫が流行し、これを御霊の祟りと考え、祀ったのである。さぁ~行列はスタート!!
南門では太鼓が打ち鳴らされていた863(貞観5)年、三代実録条に、「所謂御霊者、崇道天皇、伊予親王、藤原夫人、及観察使、橘逸勢、文室宮田麻呂等是也」とあり、神泉苑で御霊会が行われている。はっぴ・ねじり鉢巻で参加する可愛い幼児もいた
社殿は1755(宝暦5)年、禁裏の内侍所の建物を賜って造営したという。
天災や疫病が流行すると御霊をまって鎮め、災いを無くそうとした御霊信仰があり、人間関係や仕事などのストレスのこころの病気を治して、いつも平常心でいられるように、いまも人々は心を鎮める御霊神社のお守りを授かっている。
同神社では5月18日に御霊祭が行われ、境内の拝殿には提灯や巡行する三基の神輿も飾られた。つづく・・・