先ごろ、洛西竹の里小学校創立30周年記念式典があり大勢の人が参加していた。
洛西ニュータウンは、京都市西京区南西部の大原野北東部(旧乙訓郡大原野村)と大枝南部(旧乙訓郡大枝村)にまたがる地域で面積は約260haで、自然を多くの残し緑豊かな住み良い環境を備えた街である。
この街には区洛西支所の行政機関や小学校6校、中学校3校、高校3校、大学2校等の教育機関・救急総合病院の医療機関や商業施設が整っておる。
過去の高度経済成長期の人口増加による住宅需要に対して、市最初の大規模計画住宅団地で初のニュータウンで人口増加も14年間続いたが近年減少気味だ。
35年経過した今、徒歩で利用できる駅もなく、鉄道路線(地下鉄東西線)も中断したことや周辺道路が慢性的な渋滞が続いていることから、その後の人口流出が続いて少子高齢化が進行しているのが実状である。最寄の駅までは市営バスやその他、三社が乗り入れしているが約15分~20分程度かかる。
1976(昭和51)年に西京区が右京区より分区して今年で35年、「未来に羽ばたく西京区」を合い言葉に、これからの洛西ニュータウンのまちづくりのために、強い結束のもと区民一体となり老若男女、創立記念式典に取り組んだ。
未来を担う子どもたちを健やかに育むと過疎化にならないため、環境づくりを進めるために「これからのまちづくり」を目指している。
2011年8月26日金曜日
2011年8月20日土曜日
京都・嵐山 灯籠流しと鳥居形送り火
お盆の頃になると、日本各地でご先祖である御霊(お精霊)を迎えて、そのご恩に供養をつくし、再び極楽浄土へ見送りする行事が行われる。
もともとは各家庭で供養した精霊を再びあの世へ送り出すために、送り火を焚いて帰り道を照らしたことがはじまりであった。
市内の5つの山々にゆらめく炎が浮かびあがるのは東山の如意ヶ嶽「右大文字」、衣笠大北山の「左大文字」松ヶ崎の「妙・法」、帆かけ舟の形をした船形は別名「精霊船」とも呼ばれている。
五山の中で唯一西山に位置する「鳥居形」は、嵐山・渡月橋上から嵯峨曼荼羅山の「鳥居」の送り火を見ることができる。
また渡月橋の南詰、中ノ島公園では8月16日午後7時から午後9時にかけて嵐山灯篭流しが行われた。約1万もの灯篭が浮かべられ川下へ向かってゆったりと淡い光を放ちながら流れていく様は幻想的な雰囲気であった。近隣の寺の僧侶らが大堰川の灯篭が流れる前で法要が営まれた。
灯篭流しは精霊を乗せて極楽浄土へ送って逝くそうで、川面にゆらめく無数の明かりが幽玄の世界へといざなう、その幻想的な光景は人のこころに一ときの安らぎを与えてくれた。
もともとは戦没者の精霊供養のために嵯峨仏徒連盟の主催で始められた灯篭流しは、今年で64回目を向えた。なお灯篭には水塔婆があり翌年3月15日、嵯峨清涼寺お松明式で供養される。
京都五山送り火が行われるこの日は、大堰川一面にただよう美しい灯篭の光を眺めながら、鳥居形送り火を同時に見ることができてよかった。合掌
<嵐山灯篭流し>
期間:8月16日:場所:嵐山(中ノ島公園)
時間:19:00~21:00
交通:阪急電車:嵐山駅下車
京福電車:嵐山駅下車
JR嵯峨野線:嵯峨嵐山駅
灯篭の販売について・午前10:00から1基1,000円
詳細はTEL080-5307-1060(嵯峨佛徒連盟)
もともとは各家庭で供養した精霊を再びあの世へ送り出すために、送り火を焚いて帰り道を照らしたことがはじまりであった。
市内の5つの山々にゆらめく炎が浮かびあがるのは東山の如意ヶ嶽「右大文字」、衣笠大北山の「左大文字」松ヶ崎の「妙・法」、帆かけ舟の形をした船形は別名「精霊船」とも呼ばれている。
五山の中で唯一西山に位置する「鳥居形」は、嵐山・渡月橋上から嵯峨曼荼羅山の「鳥居」の送り火を見ることができる。
また渡月橋の南詰、中ノ島公園では8月16日午後7時から午後9時にかけて嵐山灯篭流しが行われた。約1万もの灯篭が浮かべられ川下へ向かってゆったりと淡い光を放ちながら流れていく様は幻想的な雰囲気であった。近隣の寺の僧侶らが大堰川の灯篭が流れる前で法要が営まれた。
灯篭流しは精霊を乗せて極楽浄土へ送って逝くそうで、川面にゆらめく無数の明かりが幽玄の世界へといざなう、その幻想的な光景は人のこころに一ときの安らぎを与えてくれた。
もともとは戦没者の精霊供養のために嵯峨仏徒連盟の主催で始められた灯篭流しは、今年で64回目を向えた。なお灯篭には水塔婆があり翌年3月15日、嵯峨清涼寺お松明式で供養される。
京都五山送り火が行われるこの日は、大堰川一面にただよう美しい灯篭の光を眺めながら、鳥居形送り火を同時に見ることができてよかった。合掌
<嵐山灯篭流し>
期間:8月16日:場所:嵐山(中ノ島公園)
時間:19:00~21:00
交通:阪急電車:嵐山駅下車
京福電車:嵐山駅下車
JR嵯峨野線:嵯峨嵐山駅
灯篭の販売について・午前10:00から1基1,000円
詳細はTEL080-5307-1060(嵯峨佛徒連盟)
2011年8月19日金曜日
祇園祭 山鉾巡行2011
約一ヶ月遅れの祇園祭山鉾巡行(7月17日)を更新することを深くお詫びする。
日本三大祭の一つで『動く美術館』とも言われる祇園祭山鉾巡行は、京都中心地で繰り広げられた。
祇園祭の由来は1142年前、神泉苑で御霊会が行われたと伝られている。町衆が疫病退散を願って始まったとされる山鉾巡行は、駒形提灯やコンコンチキチン・コンチキチンの鉦・太鼓・笛の音色の祇園囃子で連なる山鉾は豪華絢爛な懸装品で飾られている。
晴天の下、今年は6年ぶりの日曜巡行とかさなり、大勢の観客が沿道を埋めていた。筆者はいつもの予定を変え午前8時半に新町御池西南に陣取った。
予定は11時30分、巡行が来るまで3時間、いつもの事で待機、炎天下でジリジリするが、爽やかな涼風が吹いていた。ここで待ったのは鉾の「辻回し」や強力(ごうりき)の「稚児下げ」があり、アマ写真家の人々たちで場所は埋め尽くされていた。
観衆見物客が見守る中、エンヤラヤーの掛け声とともに先頭の長刀鉾が生稚児を乗せやって来た。
先頭を支配する長刀鉾は唯一、生き稚児の白井君(11歳)と禿(かむろ)2名を従えて御池新町通へと進んだ。四条通の注連縄を一太刀で切り落とす姿は祭のハイライトでもある。
稚児を担いでくるりと正面に振り返る見せ場の「おもて」は、地上から約5m、担がれた稚児の目線はさらに高く怖さのあまり“強力”にしがみつくそうだ!
新町御池での“稚児下げ”は「うら」と呼ばれ、強力は地味だが数倍難しいという、「鉾を向いて稚児を担ぎ、冠が上水引に注意し腰を落として反転する」のだそうだ。
お稚児さんも最近やや太めになり5kgの冠や衣装を加えると総体重40kを超えるそうで、強力も重たく大変なようだ。
毎回変わる曳山は霰天神山が一番くじ、あと孟宗山がつづく、長刀鉾の鉾頭は新たにプラチナ箔が施された、因みに大長刀は御所と神社を避け南向きだという。
音頭取りの『ヨーイトセー』の掛け声で車方が"割り竹”を敷き、水をかけて引き方が3,4回と引くと・・・重さ10tの鉾の車輪がギィ~と動き方向を90度回転、豪快に辻回しを披露した。
ところで、鉾と山の大きな違いは、鉾には真木(しんぎ)に支えられた鉾頭・吹散(ふきちり)がある。一方、山には山岳信仰に基づいて山を表す真松が立てられている。だが鉾と同じ形態で岩戸山や北観音山・南観音山は長さ13mほどの松を立てている。
動く美術館ともいわれる祇園祭、鉦や太鼓で祇園囃子を奏でながら都大路をゆっくりと進んだ。
32基の各山鉾には特徴があっておもしろい・・・今年は巡行しか行くことが出来なかった。
祇園祭の由来は1142年前、神泉苑で御霊会が行われたと伝られている。町衆が疫病退散を願って始まったとされる山鉾巡行は、駒形提灯やコンコンチキチン・コンチキチンの鉦・太鼓・笛の音色の祇園囃子で連なる山鉾は豪華絢爛な懸装品で飾られている。
晴天の下、今年は6年ぶりの日曜巡行とかさなり、大勢の観客が沿道を埋めていた。筆者はいつもの予定を変え午前8時半に新町御池西南に陣取った。
予定は11時30分、巡行が来るまで3時間、いつもの事で待機、炎天下でジリジリするが、爽やかな涼風が吹いていた。ここで待ったのは鉾の「辻回し」や強力(ごうりき)の「稚児下げ」があり、アマ写真家の人々たちで場所は埋め尽くされていた。
観衆見物客が見守る中、エンヤラヤーの掛け声とともに先頭の長刀鉾が生稚児を乗せやって来た。
先頭を支配する長刀鉾は唯一、生き稚児の白井君(11歳)と禿(かむろ)2名を従えて御池新町通へと進んだ。四条通の注連縄を一太刀で切り落とす姿は祭のハイライトでもある。
稚児を担いでくるりと正面に振り返る見せ場の「おもて」は、地上から約5m、担がれた稚児の目線はさらに高く怖さのあまり“強力”にしがみつくそうだ!
新町御池での“稚児下げ”は「うら」と呼ばれ、強力は地味だが数倍難しいという、「鉾を向いて稚児を担ぎ、冠が上水引に注意し腰を落として反転する」のだそうだ。
お稚児さんも最近やや太めになり5kgの冠や衣装を加えると総体重40kを超えるそうで、強力も重たく大変なようだ。
毎回変わる曳山は霰天神山が一番くじ、あと孟宗山がつづく、長刀鉾の鉾頭は新たにプラチナ箔が施された、因みに大長刀は御所と神社を避け南向きだという。
音頭取りの『ヨーイトセー』の掛け声で車方が"割り竹”を敷き、水をかけて引き方が3,4回と引くと・・・重さ10tの鉾の車輪がギィ~と動き方向を90度回転、豪快に辻回しを披露した。
ところで、鉾と山の大きな違いは、鉾には真木(しんぎ)に支えられた鉾頭・吹散(ふきちり)がある。一方、山には山岳信仰に基づいて山を表す真松が立てられている。だが鉾と同じ形態で岩戸山や北観音山・南観音山は長さ13mほどの松を立てている。
動く美術館ともいわれる祇園祭、鉦や太鼓で祇園囃子を奏でながら都大路をゆっくりと進んだ。
32基の各山鉾には特徴があっておもしろい・・・今年は巡行しか行くことが出来なかった。
2011年8月14日日曜日
左手首骨折現場検証
7月11日月曜日、午後から市バスと地下鉄を利用して再度山科区の勧修寺へ参拝した。
境内の参道は春、桜花爛漫のシーズンは見事だろうと思いつつ、映画のロケ地にもなるような白土塀を見ながら総門と入った・・・そこにはハスの花が咲き掛けていた。
中門を入ると美しい芝生越に右手に堂々とした宸殿(明正殿)が見える。また偃柏槙(ハイビシャクシン)から顔を覗かせた黄門様の燈籠がある。
本堂はやや奥まったところで、1662 (寛文2) 年に造営の仮皇居内侍所仮殿の旧材を用いて建築された。堂内の本尊「千手観音像」に心からお詫びし祈った。
あの忌まわしい骨折の日、5月23日は小雨だったが今日は晴天である。図らずも転倒し、左手首(左橈骨遠位端)骨折という事故現場をもう一度この目で見届けたく参った。ところが、松ではなく転倒した場所は「桜の木」だった。
転んだときに左手がアッ・・・しまった骨折だ!!と直ぐ思い、気が動転して訳が解らなくなっていたのだろう・・・。
大師を写真撮影しょうとバックしたところ、桜の木の根が邪魔して転倒した。
その日(5/23)は雨で、極力足元には注意に注意を重ねていたのだが、あと2,3枚で撮影は終了、今思えば甘い考えが失態だったとおもい反省している。
障害者になって14年、過去数回転倒しているが幸い打撲程度の軽症だった。だが出生後、骨折ということは一度もなかった。これからは年齢とともに心せねばなるまい!骨折して今日で7週目だがまだ骨は出来ていない・・・リハビリに専念しよう。
夏、アジサイの花と氷室池はハスの花のときを迎えている。ウルシの木があるが触らないでくれと書いてあった。またヤマモモの老木や立派な百日紅があった。
醍醐の山々が望め、奥行きのある空間が見事な勧修寺、四季の自然の美を兼ねた名勝である。(このブログは約一月遅れであることを承知願う)
境内の参道は春、桜花爛漫のシーズンは見事だろうと思いつつ、映画のロケ地にもなるような白土塀を見ながら総門と入った・・・そこにはハスの花が咲き掛けていた。
中門を入ると美しい芝生越に右手に堂々とした宸殿(明正殿)が見える。また偃柏槙(ハイビシャクシン)から顔を覗かせた黄門様の燈籠がある。
本堂はやや奥まったところで、1662 (寛文2) 年に造営の仮皇居内侍所仮殿の旧材を用いて建築された。堂内の本尊「千手観音像」に心からお詫びし祈った。
あの忌まわしい骨折の日、5月23日は小雨だったが今日は晴天である。図らずも転倒し、左手首(左橈骨遠位端)骨折という事故現場をもう一度この目で見届けたく参った。ところが、松ではなく転倒した場所は「桜の木」だった。
転んだときに左手がアッ・・・しまった骨折だ!!と直ぐ思い、気が動転して訳が解らなくなっていたのだろう・・・。
大師を写真撮影しょうとバックしたところ、桜の木の根が邪魔して転倒した。
その日(5/23)は雨で、極力足元には注意に注意を重ねていたのだが、あと2,3枚で撮影は終了、今思えば甘い考えが失態だったとおもい反省している。
障害者になって14年、過去数回転倒しているが幸い打撲程度の軽症だった。だが出生後、骨折ということは一度もなかった。これからは年齢とともに心せねばなるまい!骨折して今日で7週目だがまだ骨は出来ていない・・・リハビリに専念しよう。
夏、アジサイの花と氷室池はハスの花のときを迎えている。ウルシの木があるが触らないでくれと書いてあった。またヤマモモの老木や立派な百日紅があった。
醍醐の山々が望め、奥行きのある空間が見事な勧修寺、四季の自然の美を兼ねた名勝である。(このブログは約一月遅れであることを承知願う)
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