言い伝えによれば秀吉が小畑川の流路を西に移し、道路を拡張整備すると同時に堤防を築いた。この時できた広い河川敷が、後世の農地化、宅地化され、それが上植野町や下川原の地名が残ったという。5分も歩くと工務店、吉川さん宅に着いた。
1901(明治34)年ごろの雛人形・源氏枠飾りや内裏雛と三人官女があった。吉川さんの奥さんの説明によると三人官女は時代の人形の美しさは瓜実顔し色気があって好きだと話をした。自分も好く見ると三人官女は時代の流れがあり人形ながらも浮き浮きするようであった。米粒ほどの大名行列の芥子(けし)人形や万歳人形もあった。
江戸時代後期に作られたひな人形は緋毛氈(ひもうせん)の代わりにエキゾチックな柄の布が使われていた。江戸時代後期の雛人形は古今雛の段飾りと掛け軸、明治、大正の古今雛、昭和の御殿雛も飾られ、いずれも格式の高い上品さが伺えた。
昭憲皇太后(明治天皇のお后)の由来の袱沙(ふくさ)が現在もある。清水家の先祖(四代前)の女性が京都御所に乳母として仕えていた。都が東京に遷都した。