つづき・・・長岡京市浄土谷、西山三山の一つ、立願山楊谷寺、通称 柳谷観音は古くからアジサイの名所として知られる。
同寺では境内がこの時季、アジサイの花が一面に咲き覆われている。
1996(平成8)年、市観光協会が奥ノ院にいたる参道に「あじさいのみち」を整備され、毎年約30種約4500株が美しい花を咲かせ、“楊谷寺あじさいのみち”と呼ばれ山の斜面にアジサイが植えられている。
アジサイの花は、柳谷観音・楊谷寺奥の院へ続く坂道の両端に一面植えられており、梅雨の時季になると花が美しく咲き誇っていた。
見ごろは6月中旬から7月上旬だが6月下旬、土・日の2日間「あじさいまつり」が開催され26日、梅雨の真っ盛りのために翌日現地へ向かった。
山門は正しくは四脚門(刺脚門)といい皇族専用の門で由緒高い。
左右に七夕の笹飾りを付け、本尊の十一面千手千眼観世音菩薩にお参りするが、本堂は靴を脱がずに上れる!
あじさいのみちは、書院で庭園観賞(お抹茶の接待もある要有料)をして奥の院へ上るコースもある。また本堂から奥の院に至る参道は、右手に登り口があり奥の院は本堂真後ろの200mほど高地の山中で市街より吹く風も心地よい!
梅雨の晴れ間のなか、参拝客は赤紫や青、白など色鮮やかに咲き誇るアジサイを眺めながら境内を散策した。
当山のアジサイの見所は、自然な形で楽しめるところや日本古来の和アジサイの多いのが特徴だという。また、泡のかたまりに包まれた“モリアオガエル”の産卵泡もあらゆる所で観られた!
2013(平成13)年から「あじさいまつり」と称して、イベントが開かれている。なお花苗の無料プレゼントもしている。また、27日は阿弥陀堂のステージで住職の講話や三線、オカリナなどの演奏が行われた。
「新西国17番札所 柳谷観音 」は眼病平癒の霊験あらたかで参拝者が絶えず訪れるが、バスの便が悪く歩かねばならない!
参拝者は梅雨にぬれる境内の鮮やかなアジサイを眺め、休日の一時を楽しんだ。
なお毎月17、18日は縁日となり、本尊を開帳している。また毎月17日は、午前8時より午後1時まで阪急大山崎駅より門前まで臨時バスが頻発する。
<柳谷観音 楊谷寺>
住所:京都府長岡京市浄土谷2 電話:075-956-0017
拝観自由
交通:阪急長岡天神駅から5.2km
JR長岡京駅から6.2km
阪急バス「奥海印寺」下車徒歩約55分
2010年6月30日水曜日
2010年6月29日火曜日
柳谷観音 楊谷寺
京都府長岡京市浄土谷の柳谷(やなぎだに)観音・楊谷(ようこく)寺は、6月26日と27日「第10回あじさいまつり」が開かれた。
午前9:30長岡京市文化センター前から、臨時シャトルバス“あじさい号”が順次発車された。関係者は昨日は雨天で人出は少なったが、今日は晴れ間の好い天気になったとご満悦だった。シャトルバスは積み残しが出来るほどで、定刻より早く満員で出発、柳谷観音楊谷寺は始めてのお参りだった。
バスは竹が美しい長岡京の郊外、府道“伏見柳谷高槻線”を西へ向かい、山間部へ入り細くなったくねくね曲がった上り坂道、離合不可能な峠を越えて2キロほど進むとやがて少し山が開け約30分で着いた。
楊谷寺は西山(せいざん)浄土宗光明寺の末寺で、寺伝によると806(大同元)年、洛東清水寺の開祖である延鎮(えんちん)が霊夢のお告げに従いこの地を尋ねたときに、楊の樹茂る谷間に「十一面千手千眼観世音」が出現したという。延鎮はそれに感動し草庵を建て観音像を安置し開創したのが始まりとされる。伝えによると、空海もこの地で修行したといわれ、延鎮を第一世、空海を第二世としている。
811(弘仁2)年、弘法大師がこの寺を参詣されたとき、岩屋から滴り降りる清水で、子ザルの目を洗う母ザルの姿を見て、ケモノにも霊験のある水ならば、人間にも効くのではと17日間の熱心な加持祈祷を続け独鈷(おこう)で清水をかき回し祈ったという。
その清水は「柳谷の独鈷(おこう)水」と呼ばれ、境内にある岩穴から噴出、湧き出る清水は空海の不思議な現象により、眼病平癒の霊水(独鈷水)になり眼を病む人々から広く信仰され、柳谷の独鈷水として全国に知られている。
本堂の裏手を少し上ると、「眼力稲荷」という堂于がある。
本堂には本尊十一面千手千眼観世音菩薩像が安置してあり、また、本尊を収めた厨子は淀君寄進のもので桃山時代の豪華絢爛たるものである。寺宝に中御門天皇の寄付の鏡がある。なお1614(慶長19)年、志筌(しせん)禅師は七間四面の本堂を建立したと伝わる。
現在、本堂や庫裏・表門は1688~1703(元禄年間)年頃の修復によるものだが、京都府の登録文化財になっている。また、書院の横にある庭園は府の指定名勝となり、境内にある奥の院は昭和初期の再興で洛西観音霊場第10番札所もなっている。
眼病に効く霊水として毎月17日の縁日には、多くの参拝者で賑わっている。
阿弥陀堂前の奉納額より
みほとけに やなきの谷水を くむにをいせぬ くすりなりけ里
うららかや やなきもかぜに なびかれて ほとけのみつけ うつるたに水
つづく・・・明日は柳谷観音「あじさいまつり」
午前9:30長岡京市文化センター前から、臨時シャトルバス“あじさい号”が順次発車された。関係者は昨日は雨天で人出は少なったが、今日は晴れ間の好い天気になったとご満悦だった。シャトルバスは積み残しが出来るほどで、定刻より早く満員で出発、柳谷観音楊谷寺は始めてのお参りだった。
バスは竹が美しい長岡京の郊外、府道“伏見柳谷高槻線”を西へ向かい、山間部へ入り細くなったくねくね曲がった上り坂道、離合不可能な峠を越えて2キロほど進むとやがて少し山が開け約30分で着いた。
楊谷寺は西山(せいざん)浄土宗光明寺の末寺で、寺伝によると806(大同元)年、洛東清水寺の開祖である延鎮(えんちん)が霊夢のお告げに従いこの地を尋ねたときに、楊の樹茂る谷間に「十一面千手千眼観世音」が出現したという。延鎮はそれに感動し草庵を建て観音像を安置し開創したのが始まりとされる。伝えによると、空海もこの地で修行したといわれ、延鎮を第一世、空海を第二世としている。
811(弘仁2)年、弘法大師がこの寺を参詣されたとき、岩屋から滴り降りる清水で、子ザルの目を洗う母ザルの姿を見て、ケモノにも霊験のある水ならば、人間にも効くのではと17日間の熱心な加持祈祷を続け独鈷(おこう)で清水をかき回し祈ったという。
その清水は「柳谷の独鈷(おこう)水」と呼ばれ、境内にある岩穴から噴出、湧き出る清水は空海の不思議な現象により、眼病平癒の霊水(独鈷水)になり眼を病む人々から広く信仰され、柳谷の独鈷水として全国に知られている。
本堂の裏手を少し上ると、「眼力稲荷」という堂于がある。
本堂には本尊十一面千手千眼観世音菩薩像が安置してあり、また、本尊を収めた厨子は淀君寄進のもので桃山時代の豪華絢爛たるものである。寺宝に中御門天皇の寄付の鏡がある。なお1614(慶長19)年、志筌(しせん)禅師は七間四面の本堂を建立したと伝わる。
現在、本堂や庫裏・表門は1688~1703(元禄年間)年頃の修復によるものだが、京都府の登録文化財になっている。また、書院の横にある庭園は府の指定名勝となり、境内にある奥の院は昭和初期の再興で洛西観音霊場第10番札所もなっている。
眼病に効く霊水として毎月17日の縁日には、多くの参拝者で賑わっている。
阿弥陀堂前の奉納額より
みほとけに やなきの谷水を くむにをいせぬ くすりなりけ里
うららかや やなきもかぜに なびかれて ほとけのみつけ うつるたに水
つづく・・・明日は柳谷観音「あじさいまつり」
2010年6月28日月曜日
洛東 養源院
血天井や宗達襖・杉戸絵など拝観しに養源院にお参りに行った。
養源院は三十三間堂の東側、後白河天皇法住寺陵に隣接している。山門をくぐり庫裡・玄関までの長い参道、いま緑が美しい寺である。
1594(文禄3)年、豊臣秀吉の側室、淀君が父浅井長政の菩提を弔うため、秀吉に願い養源院は建立した。開山は比叡山の天台僧であった成伯法印(せいはくほういん)長政の従弟とした。長政の法号「養源院」を寺名にした。
1619 (元和5)年、火災に遭い焼失するが、2年後に淀君の妹、徳川秀忠の妻おごうが懇願して伏見桃山城の遺構を移して再建したのが現在の本堂である。以来、徳川家の菩提所となり歴代将軍の位牌が祀られている。
本堂へ入ると、拝観料は障害者でも割引もなく、説明はカセットテープを流し、訪ねたら答えるといった感じでマニュアル的な説明で筆者には不足だった!!
庭園もなく座ってゆっくりしたくても出来ない!
足早に、本堂の杉戸八面および襖絵十二面を観る。
俵屋宗達が描いたもので、自刃した将士の霊を慰めるために「念仏・回向」にちなみ、象や獅子や麒麟など、当時としては珍しい行動を描いており、その表現が奇抜な感じがし曲線美、新鮮美に溢れている。また、歩くとキッュキッュと音がする廊下は鴬張りで左甚五郎が造ったとされている。
本堂の左右と三方の廊下の天井は、1600 (慶長5)年の関ヶ原の合戦の前哨戦となった伏見桃山城落城の際、将軍家康公から伏見城の守備を命じられた徳川家臣、鳥居元忠一族が城を死守し、最後に自決した廊下の板を天井に上げ、その霊を弔ったもので、俗に血天井として知られている。
なお、庫裏玄関を入ると全て撮影禁止となっているので、残念ながら写真は一切ない。
<養源院>
住 所:京都市東山区三十三間堂廻り町 (三十三間堂の東側)
電 話:075-561-3887
拝観時間:9:00~16:00
拝観料金:大人500円 ・障害者割引なし
交 通:市バス「三十三間堂前」下車、南へ徒歩約5分
養源院は三十三間堂の東側、後白河天皇法住寺陵に隣接している。山門をくぐり庫裡・玄関までの長い参道、いま緑が美しい寺である。
1594(文禄3)年、豊臣秀吉の側室、淀君が父浅井長政の菩提を弔うため、秀吉に願い養源院は建立した。開山は比叡山の天台僧であった成伯法印(せいはくほういん)長政の従弟とした。長政の法号「養源院」を寺名にした。
1619 (元和5)年、火災に遭い焼失するが、2年後に淀君の妹、徳川秀忠の妻おごうが懇願して伏見桃山城の遺構を移して再建したのが現在の本堂である。以来、徳川家の菩提所となり歴代将軍の位牌が祀られている。
本堂へ入ると、拝観料は障害者でも割引もなく、説明はカセットテープを流し、訪ねたら答えるといった感じでマニュアル的な説明で筆者には不足だった!!
庭園もなく座ってゆっくりしたくても出来ない!
足早に、本堂の杉戸八面および襖絵十二面を観る。
俵屋宗達が描いたもので、自刃した将士の霊を慰めるために「念仏・回向」にちなみ、象や獅子や麒麟など、当時としては珍しい行動を描いており、その表現が奇抜な感じがし曲線美、新鮮美に溢れている。また、歩くとキッュキッュと音がする廊下は鴬張りで左甚五郎が造ったとされている。
本堂の左右と三方の廊下の天井は、1600 (慶長5)年の関ヶ原の合戦の前哨戦となった伏見桃山城落城の際、将軍家康公から伏見城の守備を命じられた徳川家臣、鳥居元忠一族が城を死守し、最後に自決した廊下の板を天井に上げ、その霊を弔ったもので、俗に血天井として知られている。
なお、庫裏玄関を入ると全て撮影禁止となっているので、残念ながら写真は一切ない。
<養源院>
住 所:京都市東山区三十三間堂廻り町 (三十三間堂の東側)
電 話:075-561-3887
拝観時間:9:00~16:00
拝観料金:大人500円 ・障害者割引なし
交 通:市バス「三十三間堂前」下車、南へ徒歩約5分
2010年6月26日土曜日
御誕辰祭・大茅の輪くぐり 北野天満宮
6月25日、北野天満宮では御誕辰(ごたんしん)祭と大茅の輪くぐりが行われた。
御誕辰祭は、祭神の菅原道真公の生誕にあたり、夏越(なごし)天神ともいわれ、真夏をひかえ庶民の健康と厄除け・無病息災を願うための「大茅の輪くぐり」が楼門で行われた。
楼門に、茅(かや)で作った直径5メートルの「大茅の輪」を掲げ、この輪をくぐると一年中無病息災、特に夏の病気にかからないと伝えられている。
奉製の「大茅の輪」は右京区京北町より刈り出し干し上げた茅で京都最大である。
茅を青竹に巻き上げた後、楼門に掲げる作業は、相当な重量のため天井に滑車を取り付け職員総がかりで一気に引き上げるという勇壮なものである。
三光門(中門)に入ると、中央に「茅の輪」があって「茅(ち)の輪」を「智の輪」と解釈し、学問の神さまである天神様のご利益を授かり、この夏を無病息災で乗り越えるため、みんなぞろぞろと茅の輪の中に入ってお参りをした。
全国各地からの修学旅行の生徒は初めて見る“茅の輪”が物珍しく、意味不明のまま、付き添いの教職は、兎に角、茅の輪をくぐれば好いことがあると諭していた!
そのとき、K・Nさんに声を掛けられた!
K・Nさんは西京区大枝の自宅からタクシーで着いたという。週一回、洛西S病院リハで会う人で知った方に遇うのは滅多にない!記念に茅の輪の前で撮影した。
菅原道真公は845(承和12)年、是善公の第三子として6月25日京都に誕生し、903(延喜3)年59歳で福岡県大宰府で亡くなった。これに因み、毎月25日が天神さんの縁日とされ骨董市や植木市などの露店と共に終日賑わっていた。
なお、北野天満宮では、6月30日にも「茅の輪くぐり」を執り行っている。
御誕辰祭は、祭神の菅原道真公の生誕にあたり、夏越(なごし)天神ともいわれ、真夏をひかえ庶民の健康と厄除け・無病息災を願うための「大茅の輪くぐり」が楼門で行われた。
楼門に、茅(かや)で作った直径5メートルの「大茅の輪」を掲げ、この輪をくぐると一年中無病息災、特に夏の病気にかからないと伝えられている。
奉製の「大茅の輪」は右京区京北町より刈り出し干し上げた茅で京都最大である。
茅を青竹に巻き上げた後、楼門に掲げる作業は、相当な重量のため天井に滑車を取り付け職員総がかりで一気に引き上げるという勇壮なものである。
三光門(中門)に入ると、中央に「茅の輪」があって「茅(ち)の輪」を「智の輪」と解釈し、学問の神さまである天神様のご利益を授かり、この夏を無病息災で乗り越えるため、みんなぞろぞろと茅の輪の中に入ってお参りをした。
全国各地からの修学旅行の生徒は初めて見る“茅の輪”が物珍しく、意味不明のまま、付き添いの教職は、兎に角、茅の輪をくぐれば好いことがあると諭していた!
そのとき、K・Nさんに声を掛けられた!
K・Nさんは西京区大枝の自宅からタクシーで着いたという。週一回、洛西S病院リハで会う人で知った方に遇うのは滅多にない!記念に茅の輪の前で撮影した。
菅原道真公は845(承和12)年、是善公の第三子として6月25日京都に誕生し、903(延喜3)年59歳で福岡県大宰府で亡くなった。これに因み、毎月25日が天神さんの縁日とされ骨董市や植木市などの露店と共に終日賑わっていた。
なお、北野天満宮では、6月30日にも「茅の輪くぐり」を執り行っている。
2010年6月24日木曜日
竹伐り会式(たけきりえしき)鞍馬寺
20日、京都の初夏の風物詩・左京区の「鞍馬山竹伐り会式」に今年も行った。
鞍馬寺の仁王門(山門)は、叡山電鉄出町柳駅から鞍馬線に乗ると約30分で着く。仁王門から多宝塔の間にケーブルカーを運行していて高齢者・障害者などの参拝は大変便利になっている。
ケーブルカーの乗車時間は僅か2分ほどだが、寺に100円の寄付金を納めた人が、(運賃が片道100円)多宝塔まで乗車できる。しかし、本殿金堂までの10分ほどの石畳の距離と石段は歩かねばならない。
竹伐り会式の催事は、毎年六月二十日に行われた。鞍馬山は雨の多いところ、梅雨の季節も真只中、曇り空が急に激しい俄雨に見舞われた!
平安初期、鞍馬山中興の祖・峯延(ぶえん)上人が修行中、現れた大蛇を退治した故事にちなんで、大蛇になぞらえた青竹を切り落とし災いを払う行事で「京都市登録無形民俗文化財」になっている。
稚児の「竹ならしあげ候え」の声で、「竹ならし」とよばれる“試し伐り”が行われる。
近江座・丹波座に分かれた僧兵姿の鞍馬法師が、2人ずつ4組に分かれて、かけ声とともに大蛇に見立てた長さ約5m、太さ10cmもある青竹を山刀で勢いよく豪快に試し伐りが行われた。引き続き舞楽「南天招福の舞 納曽利(なそり)」が奉納、紺青色の舞楽面を着け、銀色のばち(細い棒のこと)を携えて雅楽の曲に紺青色の舞楽面を着け、合わせ、今年は二人舞う。また毎年舞楽の演目は異なると言う。
午後2時、雨の中、千人の参拝者が見守り、ほら貝の音が響き渡り僧兵姿に扮した男たちの登場で始まった。
千年以上の歴史を今に伝え、「近江座」と「丹波座」に分かれて伐るその早さを競うようになったのは、江戸時代中期以降のことで、勝敗によりその年の両地方の農作物の吉凶を占ったという。素早く切って先に本坊に駆け込んだ方の地方が豊作になるとされている。
武者草鞋(むしゃわらじ)に五条袈裟(ごじょうけさ)を弁慶かぶりにした勇ましい昔の鞍馬寺の僧兵そのままの姿である。
青竹を大蛇に見たてて、二人1組に法師たちが分かれ、竹を切る速さを競った。今年も丹波座が一早く竹を伐り、参拝者の歓声を浴びながら本坊に向かって走り抜けて行った。去年と同様、丹波座の方が早く、丹波地方(京都府)の豊作が約束された。
儀式後、地元の鞍馬小学校の学童らが一斉に舞台に駆け上がり、「魔除け」のご利益があるという竹の断片を拾い集め1分ほどで竹はすっかりなくなった。
なお尊天さまにお供えするお香水、閼伽井護法善(あかいごほうぜん)神社は本殿の東側に祀られて「竹伐り会式」の由来ともなっている。
豊かな自然そのままを残す鞍馬山、宇宙とのつながり、山々が神聖なパワーを感じるところとして崇められてきた。心体にエネルギーを与えてくれ、心身の汚れが祓われて浄化されてしまう鞍馬寺、雨も上がり清々しい気持ちだった。
<竹伐り会式>
ところ : 鞍馬寺(左京区鞍馬本町1074)
と き : 2010年6月20日(日)
愛山料 : 200円 ※障害者無料
交 通 : 叡山電車鞍馬線「鞍馬」駅下車徒歩2分
鞍馬寺の仁王門(山門)は、叡山電鉄出町柳駅から鞍馬線に乗ると約30分で着く。仁王門から多宝塔の間にケーブルカーを運行していて高齢者・障害者などの参拝は大変便利になっている。
ケーブルカーの乗車時間は僅か2分ほどだが、寺に100円の寄付金を納めた人が、(運賃が片道100円)多宝塔まで乗車できる。しかし、本殿金堂までの10分ほどの石畳の距離と石段は歩かねばならない。
竹伐り会式の催事は、毎年六月二十日に行われた。鞍馬山は雨の多いところ、梅雨の季節も真只中、曇り空が急に激しい俄雨に見舞われた!
平安初期、鞍馬山中興の祖・峯延(ぶえん)上人が修行中、現れた大蛇を退治した故事にちなんで、大蛇になぞらえた青竹を切り落とし災いを払う行事で「京都市登録無形民俗文化財」になっている。
稚児の「竹ならしあげ候え」の声で、「竹ならし」とよばれる“試し伐り”が行われる。
近江座・丹波座に分かれた僧兵姿の鞍馬法師が、2人ずつ4組に分かれて、かけ声とともに大蛇に見立てた長さ約5m、太さ10cmもある青竹を山刀で勢いよく豪快に試し伐りが行われた。引き続き舞楽「南天招福の舞 納曽利(なそり)」が奉納、紺青色の舞楽面を着け、銀色のばち(細い棒のこと)を携えて雅楽の曲に紺青色の舞楽面を着け、合わせ、今年は二人舞う。また毎年舞楽の演目は異なると言う。
午後2時、雨の中、千人の参拝者が見守り、ほら貝の音が響き渡り僧兵姿に扮した男たちの登場で始まった。
千年以上の歴史を今に伝え、「近江座」と「丹波座」に分かれて伐るその早さを競うようになったのは、江戸時代中期以降のことで、勝敗によりその年の両地方の農作物の吉凶を占ったという。素早く切って先に本坊に駆け込んだ方の地方が豊作になるとされている。
武者草鞋(むしゃわらじ)に五条袈裟(ごじょうけさ)を弁慶かぶりにした勇ましい昔の鞍馬寺の僧兵そのままの姿である。
青竹を大蛇に見たてて、二人1組に法師たちが分かれ、竹を切る速さを競った。今年も丹波座が一早く竹を伐り、参拝者の歓声を浴びながら本坊に向かって走り抜けて行った。去年と同様、丹波座の方が早く、丹波地方(京都府)の豊作が約束された。
儀式後、地元の鞍馬小学校の学童らが一斉に舞台に駆け上がり、「魔除け」のご利益があるという竹の断片を拾い集め1分ほどで竹はすっかりなくなった。
なお尊天さまにお供えするお香水、閼伽井護法善(あかいごほうぜん)神社は本殿の東側に祀られて「竹伐り会式」の由来ともなっている。
豊かな自然そのままを残す鞍馬山、宇宙とのつながり、山々が神聖なパワーを感じるところとして崇められてきた。心体にエネルギーを与えてくれ、心身の汚れが祓われて浄化されてしまう鞍馬寺、雨も上がり清々しい気持ちだった。
<竹伐り会式>
ところ : 鞍馬寺(左京区鞍馬本町1074)
と き : 2010年6月20日(日)
愛山料 : 200円 ※障害者無料
交 通 : 叡山電車鞍馬線「鞍馬」駅下車徒歩2分
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