つづく・・・華麗な花笠巡行を観覧したのち、八坂神社で12時過ぎから奉納が行われた。暑中に一服の涼を求めて、花傘行列を待つ間、御祭神・スサノオとクシナダヒメの神話を本社の神職が話し面白く拝聴した。
その後、午後5時から四条通の御旅所前で三基の神輿差し上げのド迫力を目の当たりにした。しかし空は一転俄に掻き曇り、雷鳴が轟き渡る!
法被姿の担ぎ手は、びしょ濡れになりながら雷雨にもめげず、中御座が出発した。
神幸祭(17日)から八坂神社の三基の神輿は四条御旅所に一週間滞在したあと、24日が還幸祭である。
八坂神社の祭神 スサノヲノミコト(素戔嗚尊)・クシイナダヒメノミコト(櫛稲田姫命)・ヤハシラノミコガミ(八柱御子神)の各々三基の神輿が氏子区域をまわった。
祭神・素戔嗚尊の中御座が先頭で、四条寺町から高辻通西へ烏丸通四条~大宮から神泉苑に向う。屋根が六角形の神輿である。一方、東御座の神輿は、櫛稲田姫命(スサノオの奥さん)で四角形の屋根をしていて、四条通を西へ向った。
最後に控えた西御座、八柱御子神(子ども)の神輿で八角形の屋根で新京極通へとそれぞれ三基の神輿は別のルートで神泉苑を目指して、30分間隔で経った。
祇園祭と神泉苑との関わりだが、869(貞観11)年、疫病が流行したとき、時の国の数にちなんで、神泉苑に六十六本の矛(ほこ)を立て、神輿を送り祇園の神に災難の除去を祈ったと伝えられている。これが町衆の祭として、鉾に車を付け飾りを施して京の都を練り歩く祇園祭になった。
三基の神輿がそれぞれ所定のコースを廻り神泉苑を経て氏子区域内を巡行し、夜遅くに八坂神社に戻った。御神霊を神輿から本殿に還し、深夜祭典が営まれる。
年々盛んになる祇園祭の神輿の還幸祭は、激しい雷雨もあったがたくさんの人出で賑わっていた。(完)
その後、午後5時から四条通の御旅所前で三基の神輿差し上げのド迫力を目の当たりにした。しかし空は一転俄に掻き曇り、雷鳴が轟き渡る!
法被姿の担ぎ手は、びしょ濡れになりながら雷雨にもめげず、中御座が出発した。
神幸祭(17日)から八坂神社の三基の神輿は四条御旅所に一週間滞在したあと、24日が還幸祭である。
八坂神社の祭神 スサノヲノミコト(素戔嗚尊)・クシイナダヒメノミコト(櫛稲田姫命)・ヤハシラノミコガミ(八柱御子神)の各々三基の神輿が氏子区域をまわった。
祭神・素戔嗚尊の中御座が先頭で、四条寺町から高辻通西へ烏丸通四条~大宮から神泉苑に向う。屋根が六角形の神輿である。一方、東御座の神輿は、櫛稲田姫命(スサノオの奥さん)で四角形の屋根をしていて、四条通を西へ向った。
最後に控えた西御座、八柱御子神(子ども)の神輿で八角形の屋根で新京極通へとそれぞれ三基の神輿は別のルートで神泉苑を目指して、30分間隔で経った。
祇園祭と神泉苑との関わりだが、869(貞観11)年、疫病が流行したとき、時の国の数にちなんで、神泉苑に六十六本の矛(ほこ)を立て、神輿を送り祇園の神に災難の除去を祈ったと伝えられている。これが町衆の祭として、鉾に車を付け飾りを施して京の都を練り歩く祇園祭になった。
三基の神輿がそれぞれ所定のコースを廻り神泉苑を経て氏子区域内を巡行し、夜遅くに八坂神社に戻った。御神霊を神輿から本殿に還し、深夜祭典が営まれる。
年々盛んになる祇園祭の神輿の還幸祭は、激しい雷雨もあったがたくさんの人出で賑わっていた。(完)