2009年10月21日水曜日

阿弥陀寺 “花曼荼羅”

本堂
織田信長公本廟の石柱が建つ山門門前に「織田信長公本廟」の石柱が建つ阿弥陀寺(あみだじ)は、寺町通今出川を北へ500mほどのところの東側にある。
天文年間(1532~1555)に清玉(せいぎょく)上人が近江(滋賀県大津市)の坂本で開創したのが始まりである。柔和な顔の阿弥陀さま
本堂にふさわしい天井絵浄土宗鎮西派の寺院で山号:蓮臺山(れんだいざん)院号は捴見院という。
本尊は丈六の阿弥陀如来で阿弥陀寺には、織田信長、織田信忠父子が祀られている。山号:蓮臺山(れんだいざん)院号は捴見院という
極楽浄土を想像したという花曼荼羅先日、新聞で取り上げられた、極楽浄土をイメージして天井画が完成され19,20日に一般公開された。5年がかりで完成した阿弥陀寺の天井画は縦4m、横6m126枚の杉板に描き大輪のハスの周囲を、花々が彩る「花曼荼羅」となっている。織田信長ゆかりとされることから、織田家の家紋「織田木瓜」も入っている。阿弥陀さまにふさわしい天井画「花曼荼羅」に訪れた方々は“極楽浄土”に見入っていた。
織田信長公本廟所 略記
清玉上人により、天文年間(1550年頃)近江・坂本にて開山。その後、織田信長公の深い帰依を受けて京に移転。京における織田氏の菩提寺として、芝薬師・蓮台野(現在の中立売大宮付近)を中心に八丁四方の寺域を有する大寺院となる。
天正10年(1582)6月2日、信長公宿所・本能寺館を明智光秀公が急襲。清玉上人は報せを受けて本能寺に駆けつけるが、信長公自害の後であった。仕方なく信長公の遺骸を火中に投じ、阿弥陀寺に持ち帰り供養した。
向かって右が織田信長、左が信忠の墓森蘭丸ら三兄弟の墓同日、明智光秀公の許可を得て、織田氏の菩提寺の勤めとして、本能寺と二条城で討死された多数の織田家中の遺骸を供養、埋葬。その後、羽柴秀吉公が三度、信長公の法事執行を清玉上人に申し入れるものの、清玉上人は断じて受けず、秀吉公は憤り、他寺に新たに一院を建立して法事を執行した。そして織田氏は阿弥陀寺への墓参を禁じ(織田氏末裔伝)、阿弥陀寺の寺域を大幅に縮小、現在地に移転。阿弥陀寺と大檀越の織田氏との縁は切られた。阿弥陀寺は疲弊するが、時の帝・後陽成天皇は勅願所として多くの公家を檀越とし擁護され、また森氏はじめ本能寺と二条城で討死された方々の親族や、京の町衆の檀越らの協力によって法灯を継承してきた。後陽成天皇勅額はじめ信長公像・信長公手槍・信長公鞍覆など多く織田家ゆかりの寺宝が現存する。
阿弥陀寺パンフレットより
本堂には、織田信長、信忠父子の木像等が安置され、墓地には織田信長、信忠や森蘭丸ら三兄弟の墓、本能寺の変討死衆の墓がある。
毎年6月2日に(「信長忌」)堂内拝観と併せて寺宝公開されている。
阿弥陀寺の勅額境内には俳人芭蕉や蝶夢の句碑もある。帰白院に住持した天明の俳人 幻阿蝶夢(げんあちょうむ)五升庵(ごしょうあん)の墓、本能寺の変で討死した諸臣約120名の墓、江戸時代の儒者 皆川淇園(みながわきえん)の墓もある。
寺の多い、京都寺町では、この阿弥陀寺は比較的小さな寺である。
戦国武将の織田信長の墓として年代がつよく感じられた。
阿弥陀寺
住所:〒602-0802 京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町14
TEL:075-231-3538
拝観:境内自由
交通: 寺町今出川バス停より徒歩10分

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