2009年8月29日土曜日

新島 襄之墓

南禅寺高徳庵から若王子神社まで続くが、険しい坂が続く
新島襄の墓、左隣には妻、八重の墓もある東山麓に新島 襄のお墓があると聴いて出かけた。
インターネットで地図を検索、地下鉄東西線蹴上駅1番出入口で降車した。あの琵琶湖疎水の“ねじりまんぼ”をくぐり、田邉朔郎博士の像に感謝しながら疎水沿いを散策、南禅院の境内を通り高徳庵(最勝院)へと向う。
逝く夏を惜しむかのように蝉が鳴いている。
後方を見る、危ない!要注意道は二つ、左若王子、右大文字山
このコース、南禅寺高徳庵から若王子神社まで続く道程であるが、足の悪い障害者には難儀なコースだ!とにかく上り下り石段には要注意して歩く。
途中、大文字に向う三叉路に出くわした!東山風景林で土砂流出防備や風致保安林なっている。その頂上・南禅寺山に新島襄のお墓があった。
何故!寂しい処に・・・とおもった。
新島襄先生の墓碑
同志社の創始者新島襄先生は、1890(明治23)年1月23日神奈川県大磯で46歳で天に召され1月27日の葬儀のあと学生たちに担がれて此処に埋葬されました。
そして翌年1月鞍馬産の自然石に、勝海舟翁の揮毫になる碑銘を刻んだ墓碑が建立されました。
それから90余年をへて、次第に墓碑の風化が進んだため再建が協議されましたが、たまたま1986(昭和61)年6月不慮の事故によって倒壊しました。
そこで新島先生がアメリカ留学から帰国される際に「日本にキリスト教主義学校を」と声涙倶に下る墓金演説をされたゆかりの地であるヴァーモント州ラットラッド産の花崗岩をもって1987(昭和62)年1月16日にこれを再建しました。
碑銘は元の墓碑から写し刻んだものであります。
                               2004年4月  学校法人 同志社
と掲示してあった。ネットによると1890(明治23)年、同志社設立運動中に群馬県前橋で倒れ、1月23日静養先の神奈川県大磯で死去46歳11ヶ月の若さでこの世を去った。キリスト教の布教家と同志社大学の前身となる同志社英学校の創立者であることは言うまでもないが、福澤諭吉らとならび明治六大教育家の一人に数えられていて大隈重信とも親交があり、そのために同志社大学と早稲田大学は今日も交流がある。至るところに朽ちた木が
ハイカーのための道標このコース、最初、外国人の4,5人連れに会った切りで少し寂しい気がした。
無事に走破できる喜びと心胸は東山若王子山頂に葬られた“新島襄先生”の墓碑に参詣できた。

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