2009年8月9日日曜日

珍皇寺

本堂の前には「三界萬霊供養塔」
「六道の辻」と刻んだ石標と山門お盆の精霊迎えに参詣する寺として世に名高い珍皇寺(ちんこうじ)は東山区清水道を西へ5分の所にある。山号を大椿山(たいちんさん)と号し、臨済宗建仁寺派寺院の塔頭である。京都では珍皇寺を「六道さん」の名で親しまれ、先祖の精霊を家に迎える「六道まいり」で知られている。水塔婆に戒名を書くお坊さん本堂
平安前期の延暦年間(782~805)に、奈良の大安寺の住持であった慶俊僧都(きょうしゅんぞうず)によって建立された。
古くは宝皇寺とか愛宕(おたぎ)寺とも呼ばれ、一説には鳥部寺ともいうが珍皇寺の起源には多くの説がありその遺址も明らかでない。その後、平安・鎌倉期に東寺の空海が興隆し寺領も拡大したが、中世の兵乱など荒廃、貞治3年(1364)、臨済宗建仁寺の住持、聞渓良聡(もんけいりょうそう)により再興され現在に至っている。石地蔵のある境内で高野槙の葉で水むけ(水回向)をする
珍皇寺宝”十界之図”その昔 、珍皇寺が建つ辺りは阿弥陀ヶ峰山麓一帯の鳥辺野「死の空間」に通じる場所で、六道の辻と呼ばれていて珍皇寺の入口には「六道の辻 」と刻んだ石標も立っている。
六道とは、仏教の教義で「地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅(阿修羅)道・人道(人間)・天道」の六種の冥界をいい、死後、霊は必ずそのどこかに行くといわれる。六道の辻は、あの世とこの世の接点であり冥土への入口といわれている。
鬼瓦は閻魔大王の顔霊を現世に呼び戻すといわれる「迎え鐘」京都では、盂蘭(うら)盆会前の8月7日から10日までの四日間、先祖の精霊を家に迎えるため、珍皇寺へ参る風習があり、これを「六道まいり」という。期間中、境内一帯は多くの参拝者で賑わい、高野槙を求め、本堂で水塔婆に戒名を認め「迎え鐘」をつき、多くの石地蔵のある境内で高野槙の葉で水むけ(水回向)をする。
鐘は鐘堂の中にあるので見ることは出来ないが、古来よりその音色が冥土にまで届くと信じられ亡者はその響きに応じてこの世に呼び寄せられると言われる。参拝者は堂前の穴から出ている太い綱を引いて、ご先祖様が迷わず帰れるようにと祈りながら鐘を鳴らすのである。
小野 篁卿 木立像(江戸時代・作者/右京、法橋院達) 中央に閻魔大王 木座像(平安時代・作者/小野篁卿)また、珍皇寺と小野篁(たかむら)の不思議な伝説は閻魔王宮の役人で第二の冥官だったと伝説をもつ寺が祀る小野篁が冥府へ通う入口が寺に在ったためとされる。独特の神通力をもち、現世と冥土の間を行き来して、昼は朝廷、夜は閻魔庁に勤めていたという奇怪な伝説がある。こうした篁の冥官説は、時代と共に定着し江戸時代には、冥土の往路は珍皇寺、帰路は嵯峨大覚寺門前の六道町といわれるようになったという。今なお、篁が冥土へ通うのに使ったという井戸があり、そばに念持仏を祀った竹林大明神の小祠(こじ)がある。本堂の背後に残る、小野篁が冥土行きに使ったとされる井戸と、念持仏を祀る竹林大明神の祠が見える
三界萬霊供養塔には水塔婆が入れてある延暦21年(802~852)生れ、嵯峨天皇につかえた平安初期の官僚で武芸にも秀で、学者、詩人、歌人でもある。不羈(ふき:なににも束縛されない)な性格で奇行も多く、遣唐副使にも任じられたが、嵯峨天皇の怒りに触れて隠岐へ流罪、承和7年(840)には帰京・復位を許されている。その後は学識を高くかわれ官位を昇り、承和14年には従三位についている。また書家三蹟の一人、小野道風は篁の孫にあたり、絶世の美人の女流歌人といわれた小野小町は孫にあたるとの説もある。
本堂には薬師三尊像が安置、境内には閻魔堂(篁堂)、地蔵堂、鐘楼。収納庫(薬師堂)には重文の本尊薬師如来像(平安時代)が安置されている。
盂蘭盆会前の四日間、先祖の精霊を家に迎えるため、酷暑の夏、汗を拭きながら珍皇寺へ「六道まいり」する善男善女の姿が見られた。
<六道珍皇寺>
京都市東山区松原通東大路西入る TEL075-561-4129
拝観時間:10:00~16:00・無料・
「本尊拝観は2~3日前に連絡要」400円・中学以下の学生は無料
車椅子拝観可(介添人要)
市バス・京都バス・京阪バス清水道徒歩5分

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