2012年10月9日火曜日

大津祭 絡繰り(からくり)その2

つづく・・・大津祭の起源は古く1596年(慶長年間)1615年とされている。午前9時に天孫神社前に集結し、コンチキチンのお囃子が流れる中、午前の部がスタートした。祭は10月10日であったが第2日曜日、前日土曜日の宵宮と併せて13基の曳山が市内中心部を巡行されている。
子どもたちは鉦の役目?天孫神社でお祓い受けた粽が飛んだ!
場所を中町通りに移動し“からくり”を拝見、所望(からくり)を演じる場所は25ヶ所もあり、午前中は11ヶ所で各町内の家の軒先に白と赤の「御幣」が目印として掲げられていた。目印の「御幣」に差し掛かると、曳山の責任者が「所望(しょもう)」と声をかけ、五色布を結んだ指揮棒を突き上げた。それを合図に‘からくり’が動きだした。
西行桜狸山は花の中から仙人が現れ西行法師と問答する西宮蛭子山は俗に「鯛釣山」と称し、えびすさんが鯛を釣上げることから商売繁盛を祈る 西行桜狸山は俗に狸山といい、治兵衛の狸面の伝承を持ち、祭の守護と先導、天気を守り毎年、先頭で巡行する。所望(からくり)は、花の中から仙人が現れ西行法師と問答する。 一番目は孔明祈水山、流れる滝をみて「敵の大軍を押し流して・・」と孔明が扇をあける。 西宮蛭子山は俗に「鯛釣山」と称し、えびすさんが鯛を釣上げることから商売繁盛を祈る。
皇后が岩に次々と弓で文字を書く所作龍門滝山は鯉の滝登りをみせる三番目、神宮皇后山は安産の山で、所望は皇后が岩に次々と弓で文字を書く所作だった。 龍門滝山の所望は、黄河の上流にある龍門山の滝を鯉が躍り上がるところを見せる。見送りはゴブラン織で(重文)に指定されている。
能楽の「猩々」は大盃で酒を飲み顔が赤くなるところを現す西王母山は桃が二つに割れ童子が現れる 五番目は西王母山、俗に桃山と呼ばれ、西王母が3千年一度、一個しか実らない貴重な桃を王に捧げ長寿を祝福したという故事で桃太郎の説話という、桃が二つに割れ童子が現れる。 猩々山(しょうじょうやま)能楽の「猩々」所望は大盃で酒を飲み顔が赤くなるところを現す。
唐獅子が牡丹の花と戯れ遊び岩の中にかくれる和尚の法力で石が二つに割れ、女官の顔が狐に変わったところ見せる七番目は石橋山(しゃっきょうざん)、険しい石の橋を渡ろうとした時、獅子が現れた、所望は唐獅子が牡丹の花と戯れ遊び岩の中にかくれる。 殺生石山、所望は和尚の法力で石が二つに割れ、女官の顔が狐に変わったところ見せる。 郭巨山(かつきょやま)は俗に釜堀山、中国の二十四孝の一人郭巨が「子供は又得られる、母は再び得ることはできない」土中に埋めようと穴に掘ったら、黄金の釜がでてきたいう故事による。
おちゃんぽ山の愛称があり、禰宜(ねぎ)がお祓い、巫女が神楽する紫式部山は、次々と岩石の中から御所車や馬など次々と現れた10番目は、湯立山は孟宗山といっていたが寛文年間にいまの名に変わった。禰宜(ねぎ)がお祓いをして巫女が神楽を奏でることから、「おちゃんぽ山」の愛称がある。 源氏山は俗に紫式部山、所望は石山寺の岩石の中から御所車や馬など次々と現れた。
俗に言う「鶴亀山」とも呼び、謡曲にちなんだもので、頭上に鶴亀の冠をつけた男女が皇帝の前で踊るあと少しで昼休みの休憩に入る殿は、月宮殿山(げんきゅうでんざん)俗に言う「鶴亀山」とも呼び、謡曲の鶴亀にちなんだもので、頭上に鶴と亀の冠をつけた男女が皇帝の前で踊る。大津祭は湖国の三大祭の一つで秋の五穀豊穣に感謝の意味をこめ、氏子中で賑々しく行われた。つづく・・・

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