いにしえより大切に守られてきた数多くの文化財、豊かな自然に囲まれた当尾の里、京都府加茂青少年山の家の施設で “木津川市名産弁当”の昼食をいただいた。
加茂町の将来の展望と特性や当尾地区の活性化などについて気軽に懇談した。さらに簡単に地場産業として壁紙製造工程を見学し、史跡・恭仁宮跡・山城国分寺跡の最終行程に向った。
恭仁宮跡は今から約1300年前、木津川右岸に瓶原(みかのはら)の地に都が造られ歴史の舞台となった。恭仁宮跡が立地する瓶原は、木津川市の東部、丘陵地に開けた加茂盆地を中心として北から瓶原、加茂、当尾と呼ばれて加茂町を形成している。町名「加茂」は、古代の神事を司るカモ氏に由来という。
740(天兵12)年、奈良時代、聖武天皇は疫病や戦乱に見舞われ、社会不安が全国的に高まる事態を一新するため、奈良の平城京からの遷都を決意し、山背(やましろ)国相楽郡恭仁郷を新しい都と定め遷都した。その後、紫香楽宮(しがらきのみや)、難波宮(なにわのみや)再び平城京へと移行した。奈良時代の708(和銅元)年以来、天皇が行幸した岡田離宮や瓶原離宮の他、古代の貨幣「和同開珎(わどうかいちん)」を造る鋳銭司も営まれたという遺跡が残っている。
12月、突如聖武天皇が恭仁京遷都を宣言し東国行幸の後、平城京に戻らず、瓶原に造営され恭仁宮に入った。宮殿の造営は急ピッチで行われ、平城宮より政治の中心となる大極殿や朝堂院、周囲を取り巻く回廊などが移築されという。
恭仁宮は、それまでの都に比べ規模も小さく、わずか5年あまりの短命な都であったが、この間に諸国に国分寺・国分尼寺建立を命じたり、墾田(こんでん)永年私財法や重要な政策を行い、日本の中心的な役割を果たした。またこの時期に大仏造営にも取り掛かっている。746(天平17)年、安土桃山時代、平城京に都が戻った後は、山城の国の国分寺として再生し、七重塔が造営された。
今では大変珍しくなったが木造校舎の恭仁小学校のすぐ北側にある基壇が大極殿跡である。壇上には当時の礎石が点在し、壮大な建築物であったことを伝えていて、都の中心となる恭仁宮が造営され、木津・加茂・山城にまたがる壮大な都が計画されたという。
都の造営は5年ほどで終わり、宮殿の跡には山城国分寺が営まれ、現在も七重塔跡礎石が往時をしのばせている。文化財保護の係りの方に解説をいただいた。
盆地を取り巻く美しい山並みと点在する民家、東西に横切るように流れる木津川のせせらぎ、国指定の史跡の保存と今後の展望はいかに・・・加茂町の魅力を存分に感じてもらうと同時に、地域について理解を深めた充実した内容であった。最後に、この企画をされた「ふるさと相楽21」に感謝するとともに、M・Uさんや参加した方々のご好意に深く感謝申し上げる。(完)
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