清涼寺は一般に“嵯峨釈迦堂”の名で呼ばれ親しまれている。国指定の「嵯峨大念仏狂言(重要無形民族文化財)」は毎年4月に行われ大勢の参拝客や観光客で賑やかになる。
「釈迦堂」の名の由来は945(天慶8)年に、嵯峨天皇の皇子、重明(しげあきら)親王妃が清涼寺の「棲霞寺(せいかじ)」を建て、藤原氏に寄進、等身大の釈迦如来像を安置した。本尊は国宝で、この尊像は釈迦37歳の姿を写したもので日本三如来といわれ、釈迦如来像として生身のお釈迦さまとして広く信仰され今も人々から帰依されている。
開基は奝然(ちょうねん)上人で985(寛和元)年、尊像を中国から日本へ持ち帰ったという。しかし、その願いを達しないまま1016(長和5)年、奝然は没した。かれの遺志を継いだ弟子の盛算(じょうさん)が棲霞寺に建立したのが五台山清凉寺である。13日嵯峨釈迦堂の清涼寺で夕霧祭があった。
江戸の高尾太夫と京の吉野太夫と並び称された大阪の名妓(めいぎ)「夕霧太夫」の墓があり清凉寺で追善法要が行われた。夕霧太夫は右京区嵯峨の近くで生まれ、嶋原の「扇屋」の太夫となった。大坂新町に移転したため、夕霧太夫は、大坂で初めて新町の太夫になった。あらゆる技芸に通じ、美貌で人気を集めた遊女だったという。夕霧太夫は、22・26歳の若さで亡くなった、嶋原の如月太夫を招いて本堂で法要を行った。その後、嶋原の如月太夫はお付きの禿「かむろ(二人姉妹)」まりんとめいを従えて屋号(高)の傘を男衆に持たせ、本殿から三門までの境内を太夫が道中する。その後、夕霧太夫の墓地に行き、献花を供えてお参りをした。一目拝見しようとする参拝者や観光客とカメラ愛好者が嶋原太夫に殺到し境内は混雑した。
夕霧太夫は死後、愛人・藤屋伊左衛門とを主人公とする近松門左衛門の浄瑠璃や歌舞伎など多くの作品が作られた。太夫とは花魁(おいらん)ともいい、最高の遊女の位で江戸初期には大勢おったが、育てるには時間と莫大なお金が必要なため年々少なくなった。毎年11月第2日曜日に嵯峨釈迦堂では夕霧供養祭が催され、本堂での法要や嶋原太夫による奉納・舞や太夫道中など墓参が行われた。また同日開催の「嵐山もみじ祭」に合流し祭が一層賑わい華やかになる。
<清凉寺・夕霧祭>
場 所:京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46 TEL:075-861-0343
日 時:2011年11月13日(日)
拝観料:400円「本堂内で奉納舞を見る場合」(太夫道中の見学は無料)
本堂内法要/10:30~境内太夫道中/11:10~(雨天中止)
障害者:不可
交 通:JR嵯峨野線「嵯峨嵐山駅」から徒歩15分
市バス「嵯峨釈迦堂」下車徒歩約1分
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