2011年11月11日金曜日

京都伏見 史跡 寺田屋

伏見の旅籠・坂本龍馬ゆかりの寺田屋は幕末史に残る事件が二度起きている。
伏見の旅籠・坂本龍馬ゆかりの寺田屋
最初は、江戸時代末期の1862(文久2)年に発生した薩摩藩急進派を薩摩藩が鎮圧した寺田屋騒動、そして1866(慶応2)年の坂本龍馬が伏見奉行所役人に襲撃された2つの事件が寺田屋事件と呼ばれている。
南東の座敷玄関から2階へ上がると
寺田屋は、古くから京都と大阪を結ぶ通船「三十石船」の京都側の発着地一つ南浜に船着場を持つ大きな船宿であった。若かりし時のお龍さんと龍馬維新当時、女将のお登勢が龍馬の妻、お龍に便りした手紙
江戸初期から続く船宿で京へ向う船着場であり、伏見京橋界隈は維新当時大変なにぎわいで、六代目伊助となっていた寺田屋も薩摩藩の定宿と指定されており西国雄藩志士等の京に赴く足だまりとなっていた事もあって大変な繁盛であったと伝えられている。柱に刀傷慶応2年捕方に襲われた部屋
交通の要所にあり、薩摩藩の定宿であった関係から寺田屋は維新史を語る上で必須とされる「寺田屋事件」の舞台となった。慌ててお龍が裸のまま昇った階段
1862年(文久2)4月、薩摩藩の尊王攘夷派と公武合体派が乱闘、薩摩藩士9名の尊い犠牲者を出した。世にいう「寺田屋騒動」である。
当時、薩摩藩主島津久光は千名の藩兵を率いて京都へ上洛し、倒幕の意思はなく公武合体が路線とみていた。これを知った尊皇攘夷派の志士たちは討幕の命令を久光に下させ、一気に京都で討幕を上げようと意気込み、薩摩藩の定宿である寺田屋伊助方に集まった。
湯殿
久光は、薩摩藩から「暴挙を起こす人間は出せない」と激怒し、計画を断念させ藩邸に戻るよう説得させたが失敗におわった。ついに“同士討ち”の激しい乱闘となり7名が斬られ、重傷者2名は翌日切腹させられた。説得側も多数の死傷者を出すなどこの「寺田屋騒動」は、勤王派と佐幕派が戦う維新への道の始まりを告げる事件であった。お登勢の部屋寺田屋お登勢像と龍馬の愛刀・備前吉行
明治維新の立役者、坂本龍馬は薩摩藩の紹介で寺田屋を定宿としていた。1866(慶応2)年3月、深夜寺田屋で三吉慎蔵とともに、幕吏に襲われた事件の舞台でもある。坂本龍馬襲撃は伏見奉行所役人、捕方百数十人に囲まれたが、拳銃や手槍など防戦するも龍馬は自らも手の左右の親指を負傷し辛くも脱出して材木屋に隠れた。一方三吉は伏見薩摩藩に援護を求め龍馬は救出され九死に一生を得ることができた。お龍(のち龍馬の妻)が外の様子に気付き風呂から裸ままいち早く裏階段で2階に駆け上がり愛する龍馬に知らせた! 断は断定人物、推は推定人物日本の夜明け
伏見奉行所からは龍馬の引き渡しを再三再四あったが薩摩藩邸は要求を拒否し続けた。女将お登勢と養女お龍の機転で難をのがれた。大黒柱は島津藩より改築の際贈られた
龍馬は女将であるお登勢を慕い、お登勢は龍馬の要望に応えて、お龍を養女分とするなど献身的に龍馬を支えていた。まさに龍馬の人生に大きくかかわった旅籠であり、寺田屋は定宿以上の存在であった。その後、船で脱出し鹿児島へ渡り、龍馬とお龍との2人の逃避旅(新婚旅行)であったが薩摩領内での新婚生活でもあった。
昔ながらの面影を感じさせる龍馬ゆかりの寺田屋、この史跡を訪ねる人々は今も多いが1868(慶応4)年鳥羽伏見の戦に罹災し、現在の建物はその後再建したものとか、龍馬の肖像画や写真が展示されるなど、当時の趣きを伝えている。
宿の前には「史跡寺田屋」の石標と、「寺田屋騒動」で亡くなった薩摩藩士の碑が建っていて、常に多くの幕末ファンが訪れている。三十石船坂本龍馬と薩摩九烈士碑
寺田屋は、現在でも宿泊素泊まり可能で、当時に思いを馳せながら翌日、三十石船に乗って伏見観光、酒蔵めぐりなど、龍馬に親しむのも好い・・・
<史跡 寺田屋>
住 所:京都市伏見区南浜町263  TEL :075-622-0243
時 間:10:00~16:00
休業日: 不定月曜
料 金:大人400円 小学生200円 中高大学生300円
    (身障者割引:通常料金より100円引き)
交 通:京阪中書島駅から徒歩5分
    市バス中書島から徒歩1分

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