つづく・・・“ふるさと相楽21”の主催された「ふるさと再発見めぐり」は岩船寺、当尾の里の石仏めぐりの道を散策して浄瑠璃寺へと入ったが、俄然参拝客多くなった。
京都府南部の加茂町の南は奈良県に隣接し、奈良市や大阪、他府県ナンバーの車も多く見られた。
浄瑠璃寺は参道から山門までは直ぐで真言律宗の寺院で山号を小田原山という。行政区は京都府に属するが地理的に奈良の平城京や東大寺からも近く、恭仁宮跡(奈良時代に一時期都が置かれた)や山城国分寺跡(明日アップ予定)も近く、興福寺一乗院の末寺であったが、明治初期の廃仏毀釈の混乱期に、奈良・西大寺の末寺となった。
浄瑠璃寺の起源は、平安時代の1047(永承2)年、当麻「たいま(現・奈良県葛城市)」の僧・義明上人が薬師如来を本尊として創建された。
山門を潜ると正面に池、左の高台には薬師仏を祀る朱色の三重塔、西側には本堂・阿弥陀堂がある。
本堂には9体の阿弥陀如来像を安置することから九体寺(くたいじ)の通称もあり、古くは西小田原寺とも呼ばれた。当時京の都を中心に多数建立された九体阿弥陀堂の唯一の遺構である。
境内の伽藍配置は平安末期の本堂および三重塔が残り平安朝寺院の雰囲気を今に伝え、池を中心とした浄土式庭園形式は国の特別名勝に指定されている。大きな池は興福寺の恵信(えしん)という僧が掘ったもので、中央には小島があり、弁才天を祀る祠がある。
浄瑠璃寺での礼拝は、三重塔へ参り東方浄瑠璃浄土に住み、薬師仏(過去から現世へと送り出す仏)に現世の苦しみの救済を願い、阿弥陀如来(来世の仏)は西方極楽浄土の教主である来迎を願うのが作法で三重塔のある東岸は「此岸」(しがん、現世)で、池をはさんだ西岸は阿弥陀如来のいる「彼岸」である。この三重塔(高さ約16m)は1178(治承2)年、京都から移設されたもので、本尊・薬師如来像(重文)は秘仏である。寺名は薬師如来の居所たる東方浄土『東方浄瑠璃世界』に由来する。毎月の8日、春・秋の彼岸の中日、正月三ガ日のみが開扉日という。三重塔は高台にあるので振り返ると池越しに阿弥陀堂(本堂)を眺めることができる。
浄瑠璃寺は創建当初、本尊は薬師如来であったが平安時代末期の60年後、1107 (嘉祥2) 年に九体阿弥陀如来を安置する現・本堂の建立だったという。
本堂には四天王像(国宝)と9体の木造阿弥陀如来像(国宝)などが安置され別名を九体寺・九品寺とも呼ばれている。一つの堂に9体もの阿弥陀如来像を安置するという発想は「九品往生」(くほんおうじょう)思想に由来する。
人間は信仰心や功徳によって下品・中品・上品に分けられ9段階に分けられ往生をするという。人間は死後、9品に振り分けられ9体の阿弥陀如来がそれぞれに西方極楽浄土へ導くという考え方である。1047(永承2)年、伽藍の原型は薬師如来を本尊とし、本堂が建立された1107(嘉承2)年に、9体の阿弥陀如来像を安置して新たに形作られたものと見られる。
9体の中心となる阿弥陀如来中尊像の右横には子安地蔵菩薩像が祀られている。南端には左右に童子を従えた不動明王像、四天王立像(藤原時代作国宝)前には持国天と後に増長天の2体が安置されている。秘仏、美と幸福の女神・吉祥天女像(重文)が中尊の左横の厨子に納められ祀られている。山門の右脇に建つのは灌頂堂で堂内に祀るのは大日如来と弁財天の二つの秘仏で1月8日・9日・10日の三日間のみ開扉される。
彼岸の中日、池の反対側から本堂を見ると、二つの燈籠が一直線になり本堂の阿弥陀如来像が日光で光り輝く極楽浄土の世界を見るように設計されている。
つづく・・・
<浄瑠璃寺>
住 所:京都府相楽郡加茂町大字西小礼場(にしおふだば)40
電 話:0774-76-2390
拝観時間:9:00~17:00(3/1~11/30)10:00~16:00(12/1~2/28)
拝観料金:大人300円
交 通:JR関西本線「加茂駅」からバスにて「浄瑠璃寺前」下車すぐ
駐 車 場:有り(有料)
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