2012年8月28日火曜日

故郷紀行 三陸沿岸をドライブして

つづく・・・みちのく花巻に帰省したら交流しているクラスメートの友人、そう云う彼も東京からUターンの一人である。8月9日、彼の運転で陸前高田市からルート45に入り大船渡・釜石市を廻り遠野市から大迫町、紫波町、総370㌔を走破し感謝感激である。
岩手にへ帰省したらこの目で大震災の被災地を見ておきたかったが友の配慮で実現した。2011年3月11日のあの大震災は、直接的に被害にあった人はもちろんだが、全世界に大きな衝撃を与えた。テレビの前で映し出された‘津波の猛威’に唖然とし身震いを感じた。自然の恐ろしさを心の底から実感した。
家屋は津波で流され敷地の土台だけが今は残っている! ガレキの残骸の山を一つ、またひとつ小さなトラックで取り除くには途方も無く時間がいるだろう!
大津波に耐えた「奇跡の一本松」も願いも虚しく枯死状態になり最後の自立する姿を見ようと、多くの人々が連日訪れている。一方で戸羽市長は海抜0mの陸前高田市「高田松原」を公園化に立案、国に申請しているという。一本松は来月12日切り倒され、震災2年を迎える来年3月11日までに元の場所に立て直す計画だという。 大震災の地盤沈下でサッカー場の照明設備が今は海中と化しているとボランティアの方が教えてくれた。
ガレキの山積みを見ながら車を移動したら白いビニールハウスの様なものが見えた。岩手のテレビ報道で知ったが人々がレタス栽培をしているという。岩手県の三陸海岸沿いを走る風光明媚な三陸鉄道南リアス線は、大震災の被害により全線運休となっておるが開通が望まれる。今、盛駅からバス路線検討中・・・。
三陸町や吉浜湾を経て鉄の街・釜石へ、忘れていないだろうか「釜石の奇跡」のことを?・・・津波で壊滅的な被害を受けたが、市内の小中学生約3000人はほぼ全員が避難し無事だった。巨大な防波堤を砕いた大震災の津波から、児童・生徒ほぼ全員が逃れた釜石市だった。市では、震災以前から群馬大学の片田敏孝教授らによって、防災教育が徹底されていた。
震災当日も、教授が提唱した「想定にとらわれるな」「最善を尽くせ」「率先避難者たれ」という「避難の3原則」を、子どもたちが忠実に守った結果、この奇跡が起こったと言われている。
ギネスに登録された世界一の大堤防があり、加えて、釜石の学校は安全な場所だと予測され、津波警報の避難地域に指定されてなかった。しかし、児童はそういった「想定」などお構いなしに、大人からの指示を待つことなく自発的に避難し、難を逃れた。
同市鵜住居町の根浜海岸では、大震災の被災者が震災犠牲者供養のために描いた仏画を海に流す催しを行った。被災者らは仏画を海に投げ入れ、海に向かい祈りを込め静かに手を合わせた。
ガレキが山積みしたままの状態の中、今の永田町は党利党略ばかりで国民はないがしろ、福島原発事故や大震災など復興の文字が空回りしている有様である。(8月9日写真撮影)つづく・・・

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