法住寺は永祚(えいそ)元(989)年、平安時代中期に藤原為光によって創建された。
十四日は赤穂浪士の討入りの日で、法住寺には大石内蔵助良雄(くらのすけよしたか)翁が仇討ち祈願をした身代わり不動がある。
あ元は大興徳院と言い、後白河上皇の御陵をまもる寺として江戸時代末期まで存続、明治になって御陵墓と境域が分かたれ、昭和30年に法住寺の名を寺名したという。
あご本尊の「身代不動明王」像は平安期の作で、寺伝によればこの不動像は慈覚大師が造立したといわれ、後白河法皇の念持仏として信仰も篤かった。
あ木曽義仲が院御所に討ち入った際、法皇が難を逃れたため、身代り不動と呼ばれている。
あ大石内蔵助良雄翁が京都山科に隠棲していた事から、赤穂浪士装束の人々が練り歩くが江戸や赤穂だけでなく、法住寺でも法要が行われ四十七士木像や大石内蔵助直筆の手紙などが所蔵され義士の遺徳を偲んでいる。
あ法要に際し、住職が経を上げるなか、祇園東の舞妓さんによる献茶式でご本尊の「身代不動明王」像と大石内蔵助良雄翁・赤穂義士四十七士木像にお茶を献じた
法要ののち献茶式、討入そばの接待もあった。 書院ではお茶席の接待、境内では討ち入りのソバのご供養があった。(12/14撮影)
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