25日、小野小町ゆかりの寺としても知られる山科小野にある隋心院(ずいしんいん)で、11:00から「はねず踊りと今様」の踊りが披露された。
総門をくぐると境内の右手に小野梅園があり薬医門前には特別舞台には幔幕が張られ赤色の毛氈があった。席をとり少々時間があったので小野梅園で観梅をした。梅園には約230本の梅の木があるという。
梅園では「はねず梅」と呼ばれる薄紅色の遅咲きの梅の花が咲くという。ところで、あまり聞きなれない「はねず(薄紅色のこと)」は、中国から伝わった色で「唐棣(はねず)」と書き、昔から随心院の梅は「唐棣の梅」と謂れ親しまれている。
その昔、小野氏の領地で小町の居住跡と伝わっている。小町は容姿端麗で‘和歌’に優れた才能を発揮していた良実の娘で宮中の後宮に仕えていた。“小野小町のもとへ深草少将が百日通った”という伝説の舞台があった。
想いを寄せていた少将が「私のもとに百夜通い続けることが出来たら想いを遂げさせてあげましょう」と小町に言われ、印として門前の榧(カヤ)の実を採って渡した。深草から小野まで毎夜通い続けたという。
しかし、通い続けて九十九夜、その日は大雪の夜、代人を仕立てたのが運のつき少将にはもはや小町の姿をもとめることはできなかった。庭に植えた1本の榧の木がある、少将が亡くなったことを知った小町が植えた。かつては九十九本あったという、積もる思いを胸に秘め訪ねてきた少将、小町のこころはあまりにも冷たく感じられた。
その後、小町は毎年「はねず」の咲く頃を老いの身を忘れたように子どもたちと楽しい日々を過した。はねず踊りは、「小野のわらべうた」として童謡や民謡を取り入れて歌い踊りこの地に古くから伝っている。梅の花が咲き誇るころ、舞台では薄紅色の色鮮やかな小袖姿の小学高年が、傘を被り可愛らしく舞った。
長らく途絶えていたが1973年(昭和48)から地元住民が復活した。以来、随心院の祭事で有名な「はねず踊り」は、小野小町を忍んで小町と深草少将の百夜通いをもとに、地元の子供たちによる”踊り”は毎年3月の最終・日曜に披露されている。
随心院の観梅は、「はねず色」の遅咲きで薄紅色の花びらで知られ違った趣がある。つづく・・・
総門をくぐると境内の右手に小野梅園があり薬医門前には特別舞台には幔幕が張られ赤色の毛氈があった。席をとり少々時間があったので小野梅園で観梅をした。梅園には約230本の梅の木があるという。
梅園では「はねず梅」と呼ばれる薄紅色の遅咲きの梅の花が咲くという。ところで、あまり聞きなれない「はねず(薄紅色のこと)」は、中国から伝わった色で「唐棣(はねず)」と書き、昔から随心院の梅は「唐棣の梅」と謂れ親しまれている。
その昔、小野氏の領地で小町の居住跡と伝わっている。小町は容姿端麗で‘和歌’に優れた才能を発揮していた良実の娘で宮中の後宮に仕えていた。“小野小町のもとへ深草少将が百日通った”という伝説の舞台があった。
想いを寄せていた少将が「私のもとに百夜通い続けることが出来たら想いを遂げさせてあげましょう」と小町に言われ、印として門前の榧(カヤ)の実を採って渡した。深草から小野まで毎夜通い続けたという。
しかし、通い続けて九十九夜、その日は大雪の夜、代人を仕立てたのが運のつき少将にはもはや小町の姿をもとめることはできなかった。庭に植えた1本の榧の木がある、少将が亡くなったことを知った小町が植えた。かつては九十九本あったという、積もる思いを胸に秘め訪ねてきた少将、小町のこころはあまりにも冷たく感じられた。
その後、小町は毎年「はねず」の咲く頃を老いの身を忘れたように子どもたちと楽しい日々を過した。はねず踊りは、「小野のわらべうた」として童謡や民謡を取り入れて歌い踊りこの地に古くから伝っている。梅の花が咲き誇るころ、舞台では薄紅色の色鮮やかな小袖姿の小学高年が、傘を被り可愛らしく舞った。
長らく途絶えていたが1973年(昭和48)から地元住民が復活した。以来、随心院の祭事で有名な「はねず踊り」は、小野小町を忍んで小町と深草少将の百夜通いをもとに、地元の子供たちによる”踊り”は毎年3月の最終・日曜に披露されている。
随心院の観梅は、「はねず色」の遅咲きで薄紅色の花びらで知られ違った趣がある。つづく・・・
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