その日も職場の通り道、寄ってお話を交わしていた。
別室の和室でいつもの様に話を交わしていたが、少し気分が悪くなり退室しようと、一歩足を出した瞬間、クラクラと目眩がした・・・その後の事はまったく覚えていない!!
救急車は四条春日通のS病院に行ったが診療科目無く救急隊員は迷っていた。その時、傍に付いていた社長が自宅へ電話、家内は千代原口のシミズ病院を指定したのであった。
1960(昭和35)年3月郷里東和町(現花巻市)を離れ京都に上京した。
花の都に憧れ、当時、中卒でも“金の卵”ともて囃される存在で、全国各地から就職は東京を目指した。京都に就職したのは、他でもなく既に二名の先輩が就職していた。
夜行列車で旅立ちし別れを惜しんだ母や兄の言葉は今でも耳に残るが・・・もう他界してこの世にいない。
今の様に超特急はなく急行列車で京都駅まで20数時間を要した過去の体験である。
なにも知らない少年だったあの頃、伝統の京染め・型染友禅に就職、京都友禅会館訓練所に三年間通った。入所当時、友禅仲間は3,40名が学んだが一人減り二人減り卒業時僅か6名だった。
住込みで9年が経ち、友禅職人工として専門的なノウハウを身に付け社会に飛び出して行ったのは24歳、やや遅めである。
型染友禅は思ったより弱小染色業であり、分業制に分かれていた。
そして一年、東山区(現・山科区)山科川田に住いを持ち翌年、結婚。右京区(現・西京区)桂六の坪や桂離宮南に一戸建て購入、友禅職人工として生活は順風だったが、そう長くは続かなく破局をむかえた。
それからと云うもの、倍の労力に精をだし養育費を支払うため頑張った。
1985(昭和60)年、縁在って桂坂に住まいを構えた。
だが、万事休す、これからという矢先、西院の工場で脳内出血で倒れ、右半身マヒの障害者になった。
救急車が千代原口のシミズ病院のICUに到着したのは19:00ごろで、その時の表情は眼を見開いていたが何も返答がなかったという。(後日家内に尋ねると・・)
当時、9月12日は金曜日で13日(土)14,15日連休日だったので脳開頭手術は遅れてしまった。
家内の介護も虚しく意識不明が一ヶ月あまりに達し、主治医はもし助かってもこのまま寝たきりの日が続き、車イス生活だろうといって、家内を落胆させたという。
しかし、意識も元戻り、一命を取りとめたが食事は嚥下障害のため飲み込めず、溢す始末だった。当時シミズ病院リハビリの方には随分お世話を頂いたが現在も変らない・・・。
シミズ病院・洛西シミズ病院に6ヶ月、三重県の榊原温泉病院に一人で4ヶ月半、入院、四条御前の京都リハビリテーションセンターに3ヶ月、都合一年間の闘病生活をした。
もう少し仕事をしたいと思い、青谷にある京都府城陽訓練校の門を叩いたが入校出来ず、七条ハローワークにも一年近く通い、面接もしたが右手が使えないなどの理由から不採用になったのである!
家庭は火の車、家内は着物や宝石類などすべて二束三文で投げ出し支えてくれた。
0 件のコメント:
コメントを投稿