洛北の閑静な常照寺では、島原の名妓、吉野太夫を偲ぶ催しが行われた。
同寺開創時、江戸時代初期に二代目吉野太夫は日乾(にちけん)上人に帰依し山門を寄進した縁(えにし)もあり、この寺に葬られたことに偲んで追善供養が行われた。
1616(元和2)年、日蓮宗中輿の祖といわれる日乾上人が、本阿弥光悦の土地寄進を受けて開いた鷹峰檀林(だんりん)「仏教の学問所」の旧跡で別名、檀林の寺、吉野の寺(よしののてら)ともいう。
往時は広大な境内に三十余棟の堂宇が建ち並び多くの学僧が学ぶ寺であったという。一方、”吉野太夫ゆかりの寺”として有名な二代目吉野は、都の六条三筋町(後の島原)にあった廓の名妓で”遊女”としての最上位にあり、教養が高く、和歌、連歌、俳句、書、茶道、華道、音曲、囲碁、双六など諸芸に優れていただけでなく、その美貌も遠く唐(中国)にまで伝わっていたという。
当時の太夫は御所、天皇・公家・武家など上流社会の華であった。
赤い山門は「吉野門」とも呼ばれているが、1628(寛永5)年、京都嶋原の遊女吉野太夫が僅か年齢23歳の時に朱塗りの山門を寄進したものである。
しかし、“花の命は短くて・・・、吉野太夫は38歳という若さで病により亡くなった。現在の山門は1917(大正6)年に再建されたものである。
太夫が好んだ丸窓を配した茶室遺芳庵(いほうあん)やお墓もある。
夫である豪商灰屋紹益(本名・佐野三郎重孝は剃髪して紹益と号した)は、もともと本阿弥家の子であったが養子で佐野家に入った。
1631(寛永8)年、紹益は、公卿と張り合い、千三百両で吉野太夫を身請、このとき吉野は26歳の時であったという。
江戸時代初期に島原の名妓とうたわれた吉野太夫をしのんで行われる追善供養、源光庵より禿(かむろ)や男衆らを従えて優雅に練り歩く島原太夫道中の後、本堂で法要が行われ、太夫による奉納舞、献茶式などが行われる。
吉野は、本来なら夫の菩提寺である立本寺(りゅうほんじ)に葬られるはずだが、遺言から帰依した日乾上人により生前に山門を寄進した縁もあり、常照寺に葬られた。境内にある吉野太夫の墓前供養が行われる。
常照寺は吉野太夫の追善花供養、”内八文字“の行列や境内の野点茶席が賑わっていた。
<常照寺・吉野太夫追善花供養>
京都市北区鷹峰北鷹峰町45・電話:075-492-6775
拝観時間:8:30~17:00
拝観料金:大人300円 障害者150円
交通:市バス「鷹ヶ峰源光庵前」下車、徒歩約2分
島原太夫道中:10:20出発(源光庵)
法要:11:00頃~吉野太夫墓前供養:12:00頃
野点席のお点前(茶席三席:野点、茶席(遺芳庵)、煎茶席点心)
時間:9:00~15:00 ※前売4,500円、当日券5,000円(別途料金)
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