都における度重なる大火でも類焼を免れたことから「火除天満宮」と言われる。
火除天満宮は天正7年(1579)、九州統一を賭け肥前・豊後・薩摩の戦国大名が決戦を行おうとしていた時期、兵乱を避けるため筑紫国大宰府(福岡県)から、一人の老神官が菅原道真公の像を背負って入洛し、六条通周辺に祀ったのが始まりといわれる。
その後、火除天満宮は天正15年(1587)に烏丸二条の地に大雲院(だいうんいん)が開創される際に、鎮守社として迎えられた。
豊臣秀吉の命により慶長2年(1597)に現在地に移された。
天明8年(1788)の大火により大雲院は焼失したが、この時も天満宮は類焼だったという!また、元治元年(1864)の蛤御門の変での兵火は、南は七条、西は堀川、東は鴨川まで都の街を焼き尽くしたが、この火除天満宮一帯だけが奇跡的に類焼を免れたと伝わる。
明治時代以降も三度の火災に見舞われたが、この神社周辺は類焼を免れたと伝わり、学問成就と共に火除けの神として多くの信仰を集めている。
その後、明治の神仏分離令により、火除天満宮は大雲院から分離、昭和48年(1973)大雲院は、東山の円山公園の現在地へ移転している。火除天満宮の前には旧大雲院跡の示す石標があり、大雲院は百貨店駐車場となっている。なお、境内には洛陽天満宮二十五社の第九番の石碑が残っている。
<火除天満宮>
場所:下京区寺町通四条下ル
拝観:境内自由
交通:阪急「河原町」駅下車直ぐ
その後、火除天満宮は天正15年(1587)に烏丸二条の地に大雲院(だいうんいん)が開創される際に、鎮守社として迎えられた。
豊臣秀吉の命により慶長2年(1597)に現在地に移された。
天明8年(1788)の大火により大雲院は焼失したが、この時も天満宮は類焼だったという!また、元治元年(1864)の蛤御門の変での兵火は、南は七条、西は堀川、東は鴨川まで都の街を焼き尽くしたが、この火除天満宮一帯だけが奇跡的に類焼を免れたと伝わる。
明治時代以降も三度の火災に見舞われたが、この神社周辺は類焼を免れたと伝わり、学問成就と共に火除けの神として多くの信仰を集めている。
その後、明治の神仏分離令により、火除天満宮は大雲院から分離、昭和48年(1973)大雲院は、東山の円山公園の現在地へ移転している。火除天満宮の前には旧大雲院跡の示す石標があり、大雲院は百貨店駐車場となっている。なお、境内には洛陽天満宮二十五社の第九番の石碑が残っている。
<火除天満宮>
場所:下京区寺町通四条下ル
拝観:境内自由
交通:阪急「河原町」駅下車直ぐ
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