総門を入ると右手に梅園がある。
随心院の梅花は、薄紅色の花びらで「はねず色」の遅咲きで知られ北野天満宮の梅園とは違った趣がある。小野梅園の向かいに書院、本堂がある。
隋心院は、仁海(にんがい)僧正の開基で真言宗善通寺派大本山の寺院、本尊は如意輪観音。正暦2年(991)平安時代に一条天皇から寺地を下賜され、弘法大師から八代目の弟子にあたる仁海僧正が牛皮山(ぎゅうひさん)曼荼羅寺を建立、その後、塔頭として随心院を創建した。真言宗小野流発祥の地となる。
鎌倉時代、寛喜元年(1229)に後堀河天皇より、小野曼荼羅寺御殿随心院門跡となった。江戸時代中期、門跡であったが御室派、醍醐派、大覚寺派等が分立したのちも随心院は「真言宗」だったが、明治40年(1907)山階派、小野派、東寺派、泉涌寺派として独立した。
随心院は小野派本山となり、その後昭和6年(1931)に善通寺(香川県)に所属し、真言宗善通寺派となった。現在は宗祖空海の生誕地に建つ善通寺が善通寺派総本山、随心院は同派大本山となっている。
本堂は慶長4年(1599)桃山期の建築で寝殿造り、薬医門、玄関、書院は寛永年間(1624~1631)の建築で九条家ゆかりの天真院尼の寄進によるものと伝える。
奥書院には花鳥山水の図、虎の図などの襖絵がある。能の間は、 九条家の寄進により宝暦年間(1753~1764)に建造された。平成3年(1991)に改修工事が行われた。総門、庫裡は、 宝暦3年(1753)二条家よりの移築、庫裡は同家の政所御殿であったものだという。
本堂は再興当時のもので、本尊如意輪観世音菩薩坐像は鎌倉時代の作で、阿弥陀如来座像平安朝藤原時代「定朝作(重文)」及び「快慶作(重文)」の金剛薩埵座像や小野小町文張地蔵・卒塔婆小町坐像等を安置している。
隋心院が建つ、この小野付近は小野一族が栄えたところで、宮中で仁明天皇に仕え歌人として知られる小野小町もこの地の出で宮中を退いて後も過ごしたとされる。
小町の晩年の姿とされる卒塔婆小町像を始め、小町に思いを寄せて通った「深草少将」の文塚、百夜通いの折、榧(かや)の木、小町が朝夕化粧した屋敷跡の「化粧の井戸」などいくつかの遺跡があった。小野梅園は次へつづきとする。
随心院の梅花は、薄紅色の花びらで「はねず色」の遅咲きで知られ北野天満宮の梅園とは違った趣がある。小野梅園の向かいに書院、本堂がある。
隋心院は、仁海(にんがい)僧正の開基で真言宗善通寺派大本山の寺院、本尊は如意輪観音。正暦2年(991)平安時代に一条天皇から寺地を下賜され、弘法大師から八代目の弟子にあたる仁海僧正が牛皮山(ぎゅうひさん)曼荼羅寺を建立、その後、塔頭として随心院を創建した。真言宗小野流発祥の地となる。
鎌倉時代、寛喜元年(1229)に後堀河天皇より、小野曼荼羅寺御殿随心院門跡となった。江戸時代中期、門跡であったが御室派、醍醐派、大覚寺派等が分立したのちも随心院は「真言宗」だったが、明治40年(1907)山階派、小野派、東寺派、泉涌寺派として独立した。
随心院は小野派本山となり、その後昭和6年(1931)に善通寺(香川県)に所属し、真言宗善通寺派となった。現在は宗祖空海の生誕地に建つ善通寺が善通寺派総本山、随心院は同派大本山となっている。
本堂は慶長4年(1599)桃山期の建築で寝殿造り、薬医門、玄関、書院は寛永年間(1624~1631)の建築で九条家ゆかりの天真院尼の寄進によるものと伝える。
奥書院には花鳥山水の図、虎の図などの襖絵がある。能の間は、 九条家の寄進により宝暦年間(1753~1764)に建造された。平成3年(1991)に改修工事が行われた。総門、庫裡は、 宝暦3年(1753)二条家よりの移築、庫裡は同家の政所御殿であったものだという。
本堂は再興当時のもので、本尊如意輪観世音菩薩坐像は鎌倉時代の作で、阿弥陀如来座像平安朝藤原時代「定朝作(重文)」及び「快慶作(重文)」の金剛薩埵座像や小野小町文張地蔵・卒塔婆小町坐像等を安置している。
隋心院が建つ、この小野付近は小野一族が栄えたところで、宮中で仁明天皇に仕え歌人として知られる小野小町もこの地の出で宮中を退いて後も過ごしたとされる。
小町の晩年の姿とされる卒塔婆小町像を始め、小町に思いを寄せて通った「深草少将」の文塚、百夜通いの折、榧(かや)の木、小町が朝夕化粧した屋敷跡の「化粧の井戸」などいくつかの遺跡があった。小野梅園は次へつづきとする。
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