東山七条にある長大な本堂の愛称をもつ三十三間堂は、正式名称「蓮華王院」と呼ばれる。もともと広大な法住寺殿の一画に後白河上皇が離宮として建てられたのが蓮華王院本堂、今に言う三十三間堂である。
“三十三間堂”の呼び名は三十三の本堂柱間を数えることに由来し、木造建築では世界一の長さを誇っている。
平安時代末期に平清盛が建立したが焼失し、1266年に再建された。
南北約125mの長い本堂には千手観音坐像(国宝)をはさんで左右に各500体の一体一体表情の異なる千手観音立像が整然と並んでいる。1001体を数えるという千手観音像は圧巻! いつお参りしてもこころが清々しくなる。
本堂の中央には千手観音坐像が安置、仏さまの手に結んだ五色の紐の端を持ち(結縁綱参拝)参拝した。また池坊華展が本堂に献華されていた。本堂東南には特設の東風檀参拝があり高檀から千体仏を拝むことができる。
この日の三十三間堂は、吉例の春桃会(もものほうえ)の祭りが行なわれていた。境内は無料公開で、献華法要や作家で天台宗僧侶・瀬戸内寂聴師の青空説法もあり大勢の参拝客や観光客で賑わっていた。
本堂(国宝)は鎌倉時代の入母屋造で本瓦葺。
豊臣秀吉から寄進された「太閤塀(重文)」は本瓦葺で豊臣家の桐紋の文様が用いられている。豊国神社の北隣、方広寺大仏殿の外塀から移築されたのもで、塀の高さは5.3m、長さ92mの建造物である。また南大門(重文)は秀吉が南門を方広寺で建立、その子、秀頼が現在の位置に移築した門である。
三十三間堂には免震法があると伝えられいる。
先人たちの火災・地震の反省から様々な工夫を凝らした建築は、波に揺れて浮かぶ筏のように“揺れ動く”ように施されている。
また初春の風物詩「三十三間堂の通し矢」は、その始まりは不明であるが桃山時代にはすでに行われていたと伝えられる。全国から新成人・ベテランの弓道者が集まって競う。「通し矢」は、お堂の西縁の南側に的を置き、120mの距離を弓で射通し、その矢数を競ったのが今に伝わる。また、同時に行われる「楊枝のお加持」は、「頭痛封じ」の御利益があるといわれる。
桃の節句の「三」並びの日に合わせて境内が無料開放され、古くから人形(ひとがた)に穢れを託して川や海に流して災厄を祓い、無病息災を祈る習慣があった。
瀬戸内寂聴師の青空説法や千体観音像を特設の高檀から遥拝するなど、縁日(無料公開)のみの慶祝行事が催され、限定の女性専用の「桃のお守り」も授与された。
“三十三間堂”の呼び名は三十三の本堂柱間を数えることに由来し、木造建築では世界一の長さを誇っている。
平安時代末期に平清盛が建立したが焼失し、1266年に再建された。
南北約125mの長い本堂には千手観音坐像(国宝)をはさんで左右に各500体の一体一体表情の異なる千手観音立像が整然と並んでいる。1001体を数えるという千手観音像は圧巻! いつお参りしてもこころが清々しくなる。
本堂の中央には千手観音坐像が安置、仏さまの手に結んだ五色の紐の端を持ち(結縁綱参拝)参拝した。また池坊華展が本堂に献華されていた。本堂東南には特設の東風檀参拝があり高檀から千体仏を拝むことができる。
この日の三十三間堂は、吉例の春桃会(もものほうえ)の祭りが行なわれていた。境内は無料公開で、献華法要や作家で天台宗僧侶・瀬戸内寂聴師の青空説法もあり大勢の参拝客や観光客で賑わっていた。
本堂(国宝)は鎌倉時代の入母屋造で本瓦葺。
豊臣秀吉から寄進された「太閤塀(重文)」は本瓦葺で豊臣家の桐紋の文様が用いられている。豊国神社の北隣、方広寺大仏殿の外塀から移築されたのもで、塀の高さは5.3m、長さ92mの建造物である。また南大門(重文)は秀吉が南門を方広寺で建立、その子、秀頼が現在の位置に移築した門である。
三十三間堂には免震法があると伝えられいる。
先人たちの火災・地震の反省から様々な工夫を凝らした建築は、波に揺れて浮かぶ筏のように“揺れ動く”ように施されている。
また初春の風物詩「三十三間堂の通し矢」は、その始まりは不明であるが桃山時代にはすでに行われていたと伝えられる。全国から新成人・ベテランの弓道者が集まって競う。「通し矢」は、お堂の西縁の南側に的を置き、120mの距離を弓で射通し、その矢数を競ったのが今に伝わる。また、同時に行われる「楊枝のお加持」は、「頭痛封じ」の御利益があるといわれる。
桃の節句の「三」並びの日に合わせて境内が無料開放され、古くから人形(ひとがた)に穢れを託して川や海に流して災厄を祓い、無病息災を祈る習慣があった。
瀬戸内寂聴師の青空説法や千体観音像を特設の高檀から遥拝するなど、縁日(無料公開)のみの慶祝行事が催され、限定の女性専用の「桃のお守り」も授与された。
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