つづく・・・現在の京都では、お茶屋さんが姿を消した島原を除いた祇園(甲部)、先斗町(ぽんとちょう)、宮川町、上七軒(かみしちけん)、祇園東(乙部)の五つの花街がある。
芸妓さん、舞妓さんが暮らす置屋(おきや)さんと、仕事場であるお茶屋さんのある街を”花街”という。 中国の言葉で、遊芸を楽しむ場所で”花街柳巷(かがいりゅうこう)”と呼んでいたのがその由来とされている。
宮川町は東山区に位置し、宮川筋二丁目から六丁目までが花街である。その昔、太閤秀吉公が方広寺や伏見城築城により、大和大路街道沿いには人の往来が増え町並みができた。それが現在の宮川筋と呼ばれる所以である。
宮川町は天正三年に出雲の阿国が歌舞伎踊を信長公に許しを受け、慶長八年頃、阿国の娘二代目阿国が宮川河原で歌舞伎を興業して人気を呼んだ。
当時の歌舞伎の流行とあいまって、茶屋町として発展、宮川町に水茶屋が建ち、芝居小屋が数多く立ち並んだという。
男だけの若衆歌舞伎が始まり、それに出演する若衆の宿が宮川町に軒を並べていったという。当然女形を演じる若衆が必要で、当時の美少年が選ばれ、現在の女形役者へと発展したという。
作家の船橋聖一著「聖一風流抄」によれば「宮川町が歌舞伎の名優を数多くうみ育てた原点である」と記していると伝えている。元芸姑が演歌歌手としてデビューもしている。
京の花街と事始めであったが、宮川町と歌舞伎踊のなり合いを知ることができた。
花街の事始めは、京都の師走を象徴する風物詩として知られ、この日から花街は、お正月の準備が始まることから、古くは”正月起こし”とも呼ばれている。
最後に宮川町のマーク「三つ輪」の紋章は一説には、宮川の故事から三体の神輿を象徴したとも謂われ、宮川の「みや」を語呂の合う三つ輪として考案されたとも言われている。(完)
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