つづく・・・宮沢賢治の母イチの実家「産湯の井戸(賢治誕生の家)」を見学した後、親友に電話、高村山荘・記念館に車を依頼したが引き受けてくれた。
ここ花巻鍛冶町から山荘までは西方に10㌔ほど、緑の山並みに囲まれた長閑な田園風景が広がった。光太郎は、1945(昭和20)年5月、焦土と化した東京から花巻に疎開した。以前から知己の間柄だった宮沢賢治の弟の家だったが、その宮沢家も戦災をうけ転々とした。
光太郎は山荘に入る前、旧山口小学校の宿直室で過ごし、地元との交流を深め、敬慕する村人たちの手によって山荘が建てられた。
しかし、冬には雪が吹き込むあばら屋、屋根は杉皮葺、荒壁、障子一重の窓の畳三畳半で孤独な農耕自炊生活が始まった。マイナス20℃の巌寒、吹雪く夜、顔に雪がかかって寝ることさえできなかったという。炎暑の夏は、蚊やブヨに悩まされた厳しい生活だった。ときに光太郎62歳だった。
そんな生活の中で、光太郎は新しい文化の創造を夢みて、彫刻・彫塑(ちょうそ)はもとより、詩や多くの書作品が生れたのである。日時計は、一枚の板に雫のような隙間を彫り込み、太陽の動きで時刻を知ったという。
1914(大正3)年、31歳のとき三つ年下の女流洋画家・長沼智恵子と出会って結婚した。光太郎は、「この世で智恵子にめぐり逢い、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の退廃生活から救い出される事が出来た」と語った。だが1938(昭和13)年、七年の錯乱の末、智恵子は死去した。
三年後、光太郎58歳のとき、三十年に及ぶ二人を綴った詩集「智恵子抄」は、強い愛の絆で結ばれ亡き妻智恵子との愛の絶唱だった。
1952(昭和27)年、69歳のとき、十和田国立公園功労者記念碑の彫像制作に取り組み、翌年十和田湖畔休屋に「裸婦像」を除幕した。
その完成から三年後、光太郎は73歳で生涯を閉じた。
記念館は山荘から150m離れた木立の中にある。山荘の左手は井戸があり、山手後方にある小高い丘は光太郎が好んで散策した智恵子展望台だという。
智恵子の死から十一年後の晩年66歳のとき、山小屋で書いた「案内」云う詩である。
三畳あれば寝られますね。
これが小屋。これが井戸。
山の水は山の空気のように美味。
あの畑が三畝(うね)、
今はキャベツの全盛です。
ここの疎林(そりん)がヤツカの並木で、小屋のまわりは栗と松。
坂を登るとここが見晴らし、
展望二十里南にひらけて
左が北上山系、右が奥羽国境山脈、まん中の平野を北上川が縦に流れて、
あの霞んでいる突き当りの辺が金華山(きんかざん)沖ということでせう。
智恵さん気に入りましたか、好きですか。
後ろの山つづきが毒が森。
そこにはカモシカも来るし熊も出ます。
智恵さん こういうところ好きでせう。
と、綴っている。
光太郎は、「智恵子抄」など、詩集が有名になり教科書にも掲載されるようになった。本職は彫刻家・画家で詩人として詩や評論・随筆・短歌の著作もあった。
つづく・・・
<高村山荘・高村記念館>
住 所:岩手県花巻市太田3-91 電話:0198-28-3012
開 館:午前8時~午後5時 休館:12月16日~3月31日
入場料:500円 ・障害者400円
なお花巻市歴史民族資料館との総合料金は550円
交 通:花巻駅からバスで終点下車。
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