つづく・・・宮沢賢治記念館から南に約1.5㌔で新渡戸稲造(にとべいなぞう)父祖ゆかりの地がある。 生涯を国際平和と教育につくした国際人、新渡戸稲造博士のルーツを訪ねてみた!
「願わくはわれ太平洋の橋とならん」との信念のもと、世界平和のため尽力した国際人新渡戸稲造の先祖は、1598(慶長3)年から約230年間、花巻市安野の地に居住した。
以後、新渡戸一族は、代々文武両面にわったて幕末期の花巻城士の指導的役割を果たした。また十和田三本木原の新田開発に貢献した。
稲造の祖父・傳は、1793(寛政5)年、花巻で生れ、大事業である十和田三本木平の開発に、息子の十次郎(稲造の父)とともに着手、10年を費やす難工事の末、人口河川「稲生川」の通水に成功した。今日の十和田市発展の基礎を築いた。
日本銀行券の五千円券の肖像としても知られる、新渡戸稲造は国際連盟事務次長も務められ、“万人等しく学び場を”との願いのもとに農学者で教育者であった。
さて札幌農学校を経て東京大学進学後、「太平洋のかけ橋」になりたいと私費でアメリカに留学、ジョンズ・ホプキンス大学に入学したのである。この頃、クリスチャンの洗礼を受けた。一方、親交を通して後に妻となるメリー・エルキントン(Mary 日本名:万里子)と出会った。
1900(明治33)年、著書 『武士道』は、流麗な英文で書かれ、初版が刊行されると、やがて各国語に訳されベストセラーとなった。
その後、数々の学校長を歴任、世界の平和と協力を目的とした、国際連盟の事務次長を勤め、草創期の国連の基盤確立に貢献した。(一部パンフより掲載した)
記念館は残念ながら写真撮影は禁止されてあったが、前の減反水田にはコスモスが咲きアゲハ蝶が舞っていた!
つづく・・・
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