2010年8月26日木曜日

みちのく紀行 賢治の「産湯の井戸」

つづく・・・高村山荘行きのバスを知るため、花巻駅の市街観光案内所に行った。
しかし、午前中バスが運行されるのは一便だけ、乗り遅れてしまった!土蔵は隣家のものである宮沢さんのお宅
花巻駅と高村山荘を結ぶ便は、たった3本しかない!
それも平日のみの運行で午後二便、次のバスの時間14時まで、宮沢賢治の生家や「蔵」、公開期間限定(8月2日から27日)“産湯(うぶゆ)の井戸”を見学することになった。懐かしいオルガン、弾かせて頂いた
見られなくなった机、高学年用と低学年用がある観光協会のボランティアの方は私の足の事を気遣い、マップを広げ細やかにバスの時間やその後の立ち寄りなど丁寧に教えてくれた。北上行きのバスに乗車、ものの5,6分で豊沢小路(としゃこうじ)の蔵に到着した。生家跡には現在も宮沢さん家族が住居している。土蔵は隣家のものであるが花巻街角ミュージアム「蔵」は、賢治を育み、賢治が愛した人々が住む街として、賢治を公開・販売している。そこは質素な土蔵の雰囲気がした。お茶をご馳走になった。
賢治の「産湯の井戸」を目指し、花巻城下町 鍛治町を西に向って歩いた。
産湯の井戸の説明書き
今から約140年前の江戸時代末期、鍛治町は花巻城の城下を形成していた。


この「産湯の井戸」は、賢治の母イチの実家、宮沢商店で誕生、当時は産院も無く出産するのが常だった。賢治が生れた8月27日の5日後、31日午前5時、真昼岳(岩手・秋田県境)を震源とする「陸羽大地震」マグニチュード7.2が発生した。
僅か20歳のイチが生れたばかりの賢治をかばうため、乗りかかるように上体を覆い、一心に念仏唱えていたと言う。イチは両親に似て慈悲深く上品であったと言う。
旅行で花巻に訪れた東大阪市の4人連れも観光タクシーで駆けつけた。後方に懐かしい揉み啜り機がある! 宮善と書かれたハッピ、今でも商売を続けている
豊沢川の伏流水が地下水脈を形成していて水量は豊富、釣瓶井戸の水は今も満々と充ちている。味わってみたが、美味しい。
宮沢賢治「産湯の井戸」は114年の歴史を物語る。
タクシーの乗務員が井戸の中を照らしたさて、11時・・・14時まで時間はあるが待っては居られず・・・花巻市在住の親友・同級生に送ってくれと電話でお願いしてみた。
高村山荘までは10㌔程の道程で些か遠く心苦しいが、快く送っていただいた。
彼とは子ども時代からの親友である。
つづく・・・

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